―― 結成は1985年なんですよね。
でも、オリジナルメンバーは僕だけなので
―― 長く続けていくとは……。
思ってなかったですね、ほんまに。一回こっきりのバンドだと思っていたので。
地元のお祭りがあって、出ましょうかっていう感じで、同級生と作ったんです。
だから、GARLIC BOYSっていう名前も適当に付けた(笑)
―― (笑)。それが、何で続いていると思います?
ブッキングがずっと入っていたから。今も、一年後まで入っているので。それまでは辞められないな。
―― でも、一年後にはその一年後のブッキングが入っていそうですね。
そう。だから、ずっと辞められないっていう。アハハハ!
―― (笑)。そうなると、みんなどうやって辞めるんだろう。
そう、そっちの方が不思議やわ
―― 話を最初に戻すと、PETAさんが、お祭りのために結成して、緩くはじまって……。
気張ってたやん、恰好は
恰好はな(笑)
―― どんな格好をしていたんですか?
ハードコアみたいな恰好をしているベースと、ヘヴィメタルみたいなギターと、尾崎豊みたいなヴォーカルと、普通のお兄ちゃんっていうドラムで(笑)。一回こっきりで終わろうとしたからでしょうね。
同級生だったんで、俺ベース弾けるからやるわっていうノリやったから。
面白いから言いますと、ペーさん(PETA)は元々フォークの弾き語りをやっていたんですよ。
メンバーも、フォーク喫茶で知り合った仲間と、高校の同級生っていう。
―― 暫くその恰好だったんですか?
いや、最近まで俺はずっととんちんかんやったかもしれない(笑)
今も勘違いかもしれない(笑)
―― (笑)。お祭りのために結成したバンドが、続いていった経緯というのは?
運がよかったっていうか。お兄がバンドやってたから、その影響もあって。
1985年にソノシート(『GARLIC BOMBER』)を配ったのが、当時大阪にあったエッグプラントっていうライヴハウスで、周りが本気のバンドマンばっかりだったんで、本格的にやらなあかんって気持ちになったんじゃないですかね。
お兄の影響が一番大きいと思う。
アルバムとかちゃんと制作して、結構売れていたので、こうなりたいと思っていたかな。
―― その、LARRYさんが加入されたキッカケというのは?
レコーディングをする時に、手伝ってたんですよ、2枚目のソノシート(『GARLICBOYS』)くらいの時に。
その後で、オムニバス(CAPTAIN RECORDからリリースされた『4 HEAD CRASH!!』)を出す時にギターが抜けるっていう話があって、じゃあ手伝うわってアレンジしたりしている時に、当時やっていたバンドを、抜けようかなって思っていて、なんとなくこっちに入ったっていう。
とんちんかんな時は写真で見たことがあったんですけど、この頃はちゃんとやってましたよ。
俺が入ってからとんちんかんな時期もありましたけど。何回もあります。トライ・アンド・エラーですよ。
―― (笑)。キャプテンからはその後、『NINNIKU NIGHT』もリリースしますね。
オムニバスは、大阪のシーンを盛り上げるべく、THE RUDE BOYSが中心で、NEWEST MODELとMAD GANGと、4バンドで作るってなったんじゃないですかね。
それでキャプテンと繋がりができて、アルバムを作らないかっていう話になって、『NINNIKU NIGHT』に繋がったんだと思います。
―― その後、今に至るまで、レーベルも渡り歩いてらっしゃいますが。
そうですね。でも、わりにマジメな方じゃないですか。昨今のヤングたちは、オムニバス合わせてあっちこっちって多いと思うので。昔はそんなにレーベルが多くなかったっていうのも正直なところだし。
出して下さいって言ったら、出してくれるって言うから、出してもらったっていう(笑)。
殆どのレーベルがそうですね。
―― キャプテンの次は1989年に『KING OF SMELL』をALCHEMY RECORDSからリリースしていますね。
アルケミーも長かったんですけどね。
それも、(JOJO)広重くんに、飲み屋で、出してって言ったら、出しましょうかって(笑)。
車検代払わなあかんから、アルバムを毎年一枚、車検のために出していた(笑)。
ツアーに行きたかったんで、車検は重要だったと。お金なかったですからね。
財布も持ってなくて、ビニール袋にお金入れてました。45円くらいしか入ってなかったですけど。
それでツアー行けてましたから。
―― ツアーが多いというスタンスは、今と変わらないんですね。
僕が入る前からじゃないですか
そうですね、ツアー行ってましたね。
―― 1992年の『GALIC HORIC』からは、長いHOWLING BULLからのリリースがはじまります。
最初は、UNITEDの2マンに呼ばれたんですよ。
鹿鳴館か何処かで
それで、打ち上げの時にHOWLING BULLの社長の小杉に、出してって言ったら、出すかって(笑)
その前の『PSYCHO THRASH』(SUN RECORD)っていうのが、メタルっぽかったんで
―― 1993年に、HOWLING BULLの中に、ROTTEN ORANGEを立ち上げたのは?
HOWLING BULLにいたバンドが、当時UNITEDと、SHELLSHOCK、WARPIGS、LAWSHEDかな、うちらだけ色が違ったんですよ。そこで、GUNBOILが出てきた時に、うちに近いんで、HOWLING BULLっていうメタル色が強い中でやるよりは、その中でレーベルやったら?っていうことになって。
―― すみません、ヒストリーインタヴューなだけに、PETAさんとLARRYさん中心にお話を伺ってしまって。
いやいや、こちらも同じ資料を追って見ています(笑)
―― ROTTEN ORANGEでは、ガーリックのメンバーが、こういうバンドをリリースしたいっていうジャッジをしていたんですか?
メンバーはレーベルに関わってないですね、基本的には対バンして自分が決めるという。
だから、地方のバンドばっかりなんですよ。まぁ、後に上京したバンドもいるんですけど、そういうところも趣旨で。
うちらも大阪だったんで、東京以外で自分がカッコいいと思うバンドをメインでリリースしていたんですよね。
―― 私がリアルタイムで記憶しているのは、1993年の『ナルシスト宣言』からで、当時も凄く鮮烈でしたね。
作っている方も、これはとうとうやってしまったなと思ったんですけど。そこまで火は点かなかったですね……
ははははは!
―― そうですか!?
これは凄いって言ってくれる人はいるんですけど、当時、あの感じは違ったんでね。
メタルでもないし、何だろうみたいな。
―― 確かに、打ち出し方が難しい音楽性ではありましたよね。
今もそうですけどね。長くやっているから、そのへんは考えずにできますけど。
―― あと、よく90年代前半は、ライヴハウスに人が入らなかった時期とも言われていますが。
いや、ずっと大変やけど(苦笑)
でも、基本的にライヴやらせてもらえるところがずっとあったんで、大変感はなかったですね。
周りの状況云々よりは、一回『GALIC HORIC』でやらかしてるんで、全然平気でしたね。
ヒドい作品を作ってしまって……もっとちゃんとしたのを作れたのに。
曲も詰める前に出してしまったのもあるんですけど、レコーディングに向かう姿勢もいい加減で。
世の中の状況が悪いというよりは、我々的にバンドが一番ダメだった時期ですね。
『PSYCHO THRASH』が評判もよくて、ええ感じにできたのに。
次も楽勝や、と。そうしたらえらいアルバム作ってしまって(苦笑)
小杉もこのアルバムを、こいつらパンクだからいいんじゃない?って思って出したたみたいです。
彼は当時メタルで、パンクをわからなかったんで。
エンジニアも、これでいいの?っていうところを、パンクだからいいんじゃない?って。
パンクとかメタルとか関係なしに、悪いもんは悪いですからね(笑)
それで反省して『ナルシスト宣言』を生真面目に作ったっていう。
―― いろいろ手探りな時代でもあったんじゃないですか?
そうですね、それはある。
―― でも、1994年には、アメリカツアーを廻りますよね。ALL YOU CAN EAT、NOFX、FACE TO FACE、GAS HUFFERという、錚々たる面々と。
でもこれが、完全にタイミングが悪くて、ちょうALL YOU CAN EATのヴォーカルが、マキシマム・ロックンロールってファンジンのライターもやっていて、『YOKOZUNA』のEPを推していたんですね。
でも、来日した時に一緒にライヴをできなかったんで、その流れでアメリカでやることになったんです。
だから、彼的には『YOKOZUNA』のEPみたいなサウンドを求めていたと思うんです、ブッキングを見るとわかるように。
でも、もう『ナルシスト宣言』をやっていて、長髪やったんで、何のこっちゃみたいな、何処に行っても。
唯一食いついてきたのが、向こうのスラッシュバンドと、日本で一緒にやったEXODUSのメンバーだったっていう、はい。
―― ……わかりやすいというか。
そうそう、そうなんですよね。いいことをやっていれば、向こうにも伝わるんやっていう気持ちはあったんですけど、そんなことないですね、やっぱり。音楽性が違うと、無理です。
―― ……ということは、修行のような感じだったんでしょうか。
今考えればそうですね。でも、当時はアメリカに行って、調子に乗っていたんで。でも、そこからは何も繋がらなかったし。
NOFXとかとも仲良くなってるんですけど、何かあったかって言うと、何もなかったです。
ははははは!
―― ま、また来いよって言われたりとか……。
まぁ、社交辞令的には言うんでしょうけど……
―― そ、そんな年を経て、1995年には『ハッスル』で、EPICソニーからメジャーデビューを果たしますね。
まぁ、それも、ボタンの掛け違えみたいな。
―― !?
まず、EPICソニーってなってますけど、洋楽部だったんですよ。日本語で歌っているにも関わらず。
レーベルメイトが、マイケル・ジャクソンとオアシスっていう、全く意味がわからない(笑)。
おかしいでしょ、はなから。EPICソニーから、エピタフもリリースすることになったからっていう流れやと思いますけど。
―― メジャーには行きたかったんですか?
そんなに興味がなかったんですけど、でも一回は行ってみたいという他のメンバー3人の意見があったんで、そういうのもいいかねって。自分は、前のバンドでメジャーに行って、面白くないってわかっていたんで。
―― 実際、どうでした?
ランジェリーパブに連れていってもらったっていう(笑)
―― !?
意味わかんないでしょ?
お寿司屋さんとかからはじまって、ランジェリーパブ行って、クラブ行って、一日に物凄いお金を使ってたっていう。
僕らは連れていかれただけなんで、後で領収書がそないことになっていて驚きましたね。
小杉もそういう世界をあんま知らなかったんで、これだけのお金があったら宣伝できるじゃん! 何だよこれ!?っていう。
その頃からマズいんじゃないかなって、雲行きが怪しくなってきましたね。
―― まだ、業界がイケイケだったんですね……。
ちょうどいい時期だったんですよね。オアシスが2枚目(『〈What's the Story〉Morning Glory?)』を出した頃で。
―― なるほど。90年代後半になると、AIR JAMがはじまったり、メロコアやミクスチャーの若手との絡みも増えていったんじゃないですか。
そうですね。でも俺らはわりと少ない方じゃないですかね。
大阪だったんで、頻繁にライヴのブッキングで一緒にやれることはなかったんでね。声掛けて頂いているからですよ。
そこを、俺たちがー!って出ていっても、ダメなもんはダメじゃないですか。何言ってんのバカっていう。
―― (笑)。冷静ですね!
いやいや、その都度、これはキた!って思っているんですけどね。
AIR JAMの頃も、これはキた!って思ったんですけど、こなかったですね、くる、こないがわかんなくなりましたもん、考え過ぎて。悟りの境地ですよ。
―― (笑)。最初の方に言っていた、とんちんかんな格好をしていた時期って、訊き逃していません?
とんちんかんは終わりましたね。『NINNIKU NIGHT』あたり、意味不明にメイクしたりしていて。
ヴィジュアルみたいなメイクじゃなく、オカマみたいなメイクだったんですけど。
目バリを入れていたんです。何でやろ。そういうバンドがおったんかな?
流されやすいっていう。友人がきてメイクしてくれたこともあって。
俺もさせられて、完全におかまのおばちゃんみたいになっていて(笑)
この時(1994年アーティスト写真を指して)は、ビースティ・ボーイズみたいな(笑)
アメリカ行くって言って散髪してきたら、(PETAが)リクルート・カットみたいになってきたんですよ。
どういうこと!?って。それでアメリカに行って、一人で散髪屋に入って、ビースティ・ボーイズの写真を見せて『THIS』って言って、散髪したっていう(笑)
―― (笑)。それ以外の時期は、どうだったんですか?
『ナルシスト宣言』の頃は、ほんまにスラッシーな格好してましたからね。
Vのギター持って。アンスラックスとか聴いてたんで。このへん(1995年)も、坊主頭になって、バカじゃないのっていう。
それまでロン毛だったんですよね。でに、写真撮影の前日に坊主にして行ったら、レコード会社の担当に、何で髪の毛切ってるの!?って嫌な顔をされましたね。今となっては普通でしょ、坊主って。でも、当時バンドで坊主はいなかったですからね。
これはイケる!って思いましたけど、イケなかったです。坊主って●●●か●●●しかいなかったでしょ。
……(笑)
そのへんからボタンの掛け違いが。メジャーの扱いがど初っ端から悪くなったっていう。最初は奢ってくれたのに。
―― (笑)。話を主軸に戻しまして。2000年代になっても活発に動き続けて、2001年にはユーロツアー、七カ国26か所に出向きましたね。
これも大変な時期で。ヨーロッパは『ロマン』っていうアルバムの制作時期に行ったんですよね。
集中はできないわで、心残りな作品になりましたね。一ヶ月まるまる出て、間に一日しか休みがなかったので
―― 台湾のFORMOZ FESTIVALにも出演されましたね。
あれはよかったな。
んー…。普通、普通でした。(お客さんの)顔もアジア系なんで、そんな気負いなく。
そこそこちゃんとお客さんもいて、クレーンでカメラが動いていて、何この芸能セット、みたいなイベントでしたけどね。
メガデスが出ていた
台風で韓国からの異動で4時間遅れて、着いたのが朝4時で、それでもライヴやったっていうんですけど、メガデスの話なんかどうでもいいっていう。
―― (笑)。2002年には中国のBIG PUNK FESTIVAL TOKYO-SEOUL-BEIJINGにも参加されましたね。
ライヴハウスですけどね。ヤクザがボディガードしていて。ほんまらしいんですよ。
事務所には銃がたくさんあるんで、お店の人を怒らせないようにって。
―― 本当ですか!?
ほんまに怖いんです。演奏していると、白いワイシャツ着て警備が目の前に立ってるんです。
お客さんからはワイシャツ野郎しか見えないという。お前ら演者か、みたいな感じで。
そんなお客さんが最終的に盛り上がってくれたんで、用意していたTシャツをバラまいたら、そいつらが取ってましたからね。
―― ……凄い光景ですね。
でもね、現地のバンドはしっかりしてましたね。スキンズの子も、キャップを被ったメロディックな子もいて。
情報がないって聞いていたんで、僕の中では、80年代に聴いた中国初のパンクバンドっていう触れ込みだったドラゴンズが、『Anarchy In the U.K.』を胡弓でやっていたんで、そういうバンドばっかりかなって思っていたんだけど、全然違いましたね。
日本と一緒ですもん。みんなカッコよかった。
―― 2004年には、HOWLING BULLを離れることになりました。
製作費の方が掛けられなくなって、ポスターが半分に切られていたっていう(笑)。
付き合いも長くなってきたんで、一回締めようかな思って、俺らも違うところでやろうかなって言ったら、その方がいいよって言われて。あっさり。ただ、あぁそうかいって言ったものの、アテもなかったので。
知り合いのSMASH WESTの南部さんから、P-VINEっていうところが、わりといい感じで言ってくれてるよって言われて、話したらやりましょうかって感じだったんで。で、『群青』を出した感じです。
―― この時期は、HAWAIIAN6や、マキシマム ザ ホルモンなど、若手のバンドとの対バンも増えましたね。
HAWAIIANがキッカケですね。この時期、ライヴの本数が減っていたんですよね。
でも、HAWAIIANが呼んでくれて、最近のバンドに近付かせてもらって、ライヴできるようになったんです。
ピザからリリースすることになったのもHAWAIIANがキッカケなんで、HAWAIIANとの出会いは大きかったですね。
若手よか、僕らより上は、もうあんまりいてないですからね(笑)
―― 2005年には平成ラリー塾もはじまりましたけど。
それまでも、この名前じゃないですけど、イベントはやっていたんですよ。
それを、もうちょっとちゃんとしようかって、ファンダンゴの店長、加藤君と話して。
自分らの姿勢的にも、決して後ろ向いていたわけじゃないんですけど、このへんで前を向けるようになったんで、イベントも本腰入れてやろうかなって、そのタイトル付けましたね。
―― ここまで、メンバーチェンジも多く重ねてきましたね。
まぁ、26年って考えると、少ない方ですよ。ある程度まで行ったら慣れですよね。
メンバー変わってもできるっていうところにもなってくるし。
どうしても、家庭の事情でできないとか出てくるんで。ちょうど30超えるとね。
―― そんな中で、2006年には、PESSINさんがベーシストになるという。
ようやく出番がきました!(笑)
―― 経緯というのは?
あんま覚えてないんですけどね。
僕は鮮明に覚えてますね。電話が掛かってきまして、最初、前のドラムの方からで、何を言っているのかがあまり理解できなくて(苦笑)、そうしたら電話の向こう側からLARRYさんが、じゃあ俺が言う、ベースやってくれへん?って。
僕、別のバンドでツアーしてて、そのツアー中だったんですけど。
―― 即決だったんですか?
いや、電話がきた時は、別のバンドもやっていたので、掛け持ちでもいいですか?って話もしつつ、その日のうちにメンバーと話して、二日後にそのバンドを辞めました
―― うわぁ、思い切りいいですね!
まぁバンドもゴタゴタはしていたので
―― でも、正直プレッシャーはなかったですか?
ありましたねぇ
ほんまに?
最初に、練習して欲しい曲を入れたCD-Rを渡して、よろしくって言って、初めてスタジオ入りました、取り敢えず1曲目『泣き虫デスマッチ』からはじめますか……デレーレデレーレって、ベースが最初の一音しか合ってないんですよ。
アレンジされてる、みたいな。
この先どうしようかなって(笑)
20曲くらい、そのCD-Rに入っていて、僕は、その1曲目から覚えていったんですけど、『泣き虫デスマッチ』は最後の曲やったんです。で、どれ行ける?って言われて、全部行けます!って、当時25歳だったんで、勢いよく言って。
そうしたら、『泣き虫デスマッチ』って言われて(苦笑)
そうか、25歳やったんか
アホやったもんな。
どアホですね(苦笑)
最初に歓迎会をやったんです、居酒屋で飲んだんですけど、開始そうそう、僕、目が見えなくなったんで、寝ていいですかって。
意味がわかんないでしょ。彼の為に歓迎会をひらいているのに、開始三分で寝ていいですかって。
―― それ、衝撃的ですね。
衝撃ですよ。暫くして起きたら酔ってるじゃないですか。ペーさん、俺、歌詞書いていいですか?とか、僕がガーリックに入ったらカッコよくなりますから!とか、口から出るわ出るわ。それで、おし、決まったなと
―― ちなみに、スタジオに入ったのはその後ですか?
もちろんですよ。そんだけ言ったらさぞかしやらかしてくれるだろうなって思ったら、やらかしましたね。
―― 逆に(苦笑)。
しかも、一音合う方が難しいっていう。まぁ、これからやれることがいっぱいあるので、俺は楽しいなって思ったんだけど、ぺーさんは、大丈夫?って思って、うちのスコアを手渡したらしいです(笑)
売ってるやつです(笑)
悲惨ですよ。
いや、当時は全然そう思ってないでしょ。そういうの連発ですよ。
『群青』のレコーディングの時も、ドラム録りが終わって、既に時間が押していたんで、これスケジュールがタイトになってるなって話していた時に、僕はベース明日で10曲録るんでって言って。
まぁ、レコーディング経験していても、一日で10曲ってなかなか難しいんで、言ってるなぁって思ったら、半日掛けてイントロしかできなかったっていう(笑)
おもろかった(笑)
下がレコーディングスタジオで、上が宿泊施設なんですけど、同じ音が聴こえてくるんですよ、半日。
ドドドドドド……あれ、こんなにこの曲続いていたっけって。
もう、死んだ方が楽やと(苦笑)
そんで、悲惨な顔して上がってきて、イントロようやく行けましたわって。
あまりにも遅ないか?って聞いたら、もう死にたいですわって。
その後、散歩に出掛けたんですよね(苦笑)
―― イントロ以降は、スムーズに行ったんですか?
そういやそうっすね。
―― でも、それくらいのパンチがないと、ガーリックのメンバーにはなれないんじゃ?
間違いないです。
―― 2007年には、年間ライヴ本数が111本とありますね。
そのへんから増えたんですよね。前のベースの時も、仕事であんまりライヴが入れられなかったんで
―― そして、2008年に『激情』をPIZZA OF DEATHからリリース。
HAWAIIANと一緒にライヴをやることになって、ピザからイベントに呼ばれるようになって、スタッフとも近くなれたんですよ。
それで、現場のやり方を見ていると雰囲気がよかったんで、こういう人たちと仕事したいと思って。
P-VINEの時は担当一人で、ライヴにも来てくれてっていう感じだったんで。助かっていたんですけど、現場で殆どの人の顔が見えているっていうのには、憧れるじゃないですか。
HOWLING BULLでもそういう経験がなかったんで、これはいいなって思って。
―― 嘗てHOWLING BULL のレーベルメイトだったKENさんのレーベルからリリースするっていう流れは、何だかドラマティックにも思えましたね。
周りはそうみたいですね。こっちはそうでもなかったんですけどね。お邪魔します、みたいな感じで。
お互いそういうふうに思っていないんじゃないですか。
入るの決まってからかなぁ、KENくんと電話で話した気がする。話したのはバカ話でしたけど。
―― ピザはどうですか?
思っていたとおりですね。年々よくなりますね。
―― そしていよいよ2010年、ドラマーがRYOさんになりました。
RYOくん、きたよ!
ライヴはよく一緒にやってたんですけどね。前のDOLCEの時も。
―― この経緯というのは?
これ、ペーさんと密談してたもんな?
密談っていうか(笑)、DOLCEで平成ラリー塾に出させてもらった時に、もう辞めることが決まっていたんですけど、対バンさせて頂くたびに、先輩方には、お世話になりましたってご挨拶をさせて頂くので、ガーリックにもご挨拶したところ、まだ前のドラマーのSHINさんが辞めるって決まっていなかったんですけど、急に大阪来れる?って言われて、何もしがらみはないですと。
続けて、ツアーとか出れる?って言われて、DOLCEでも出ていたので大丈夫ですと。
そうしたら、スタジオ入ってって言われて(笑)。いや、SHINさんがまだいらっしゃるじゃないですかって言ったんですけど、いろいろ状況が状況でって話になって、一回スタジオに入ろうと。
それから、LARRYさんの方から、改めてじゃあよろしくって言われて、あ、はいって。
それで、次の日に不動産屋行って、大阪で家を決めて、東京に帰って、職場の人事が僕の父だったんで、大阪でバンドやるから仕事辞めたいんだけどって言ったら、お前は社員じゃないからいつ辞めてもいいって言われて(笑)、何も大阪には触れられず……じゃあ今月いっぱいで辞めるわって言って、翌月には大阪へ。
―― 怒涛ですね!?
自ら怒涛にしたよね(笑)
そうです……あれ、でも(笑)
キッカケは作ったけど、ぜひともっていう話になってからは、RYOくん仕切りで早かったと思うよ。
衝撃やったもん。
もう来るの?早!っていう(笑)。そこまでフットワーク軽い人を見たことがなかったんで。こっちとしてはありがたいですけど。
いや、思い……悩みましたよ?(笑)。
辞めてから、自分の中では、ドラムを本格的に習いに行って、スキルの底上げをしようかなと思っていたんですけど、そんな中で急に、思いもよらない話があって。でも、バンドはやりたかったし、ガーリックを断って、次のバンドはないなって思ったので。9月3日に引っ越して、9月5日にライヴだったんですよ。
そのまま、月末にレコーディングがあって、ありつつも10月10日にワンマンもあって、30曲覚えなきゃいけないっていう。
引っ越しして、丸々一ヶ月仕事しないで引き籠ってました(苦笑)
―― 凄! やっぱりガーリックには、何か持っている方が入るんですね。
はいはいはい。持っていない人はすぐに辞めますから。
―― そして今の布陣になって、『再録ベスト』に繋がっていくわけです!
【 発売記念スペシャルインタビュー 第1回「GARLICBOYSヒストリー」終 】
インタビュー@高橋美穂