--1stアルバム『BRAVE NEW WORLD』リリース後にツアーがあって。2011年3月5日のファイナルの新宿ACBには、BRAHMAN、LOSTAGE、THE CHERRY COKE$、F.I.Bが出演と豪華なラインナップでしたね。
HAYATO「そう、BRAHMANに一発目に出てもらって。でも俺、あのときのライブは全然達成感がなくて、すごく悔しかった記憶がある」
INOMAN「俺もそんな感じでした。ファイナルがむしろ一番よくなかった」
HAYATO「俺も。だからすごく悔しかった」
--それはどうしてだったと思います?
INOMAN「う~ん……。初めてのちゃんとしたツアーで疲れもあったのかもしれないし、錚々たるメンツのなかでやってその人たちと比べちゃうところもあったと思うし……なんかね、よくなかった。フワフワして終わってしまった感じがあったというか」
HAYATO「そうそう。浮足立ったまま、何も掴まず、その日が終わってしまったというか」
--じゃあ消化不良のままツアーが終わってしまった感じというか。
HAYATO「めちゃくちゃ消化不良。でもなんで消化不良だったのか理由がよく分からなくて。その前にあった名古屋、大阪のライブは全然消化不良という感じじゃなかったから」
INOMAN「個人的にはその経験を活かして2ndアルバム(『Shine Our Journey』)のツアーファイナルにはすごく気合いを入れた。絶対あんな風にはしたくないなと思って事前準備をして……それくらいイヤだった。すごく覚えてる」
--なるほど。そのファイナルの直後に東日本大震災があって……。MEANINGはいち早く行動を起こしましたよね。
HAYATO「ACBでのツアーファイナルが震災の一週間前で、そのときにTOSHI-LOWさんといろいろ話をしてて……。震災直後にTOSHI-LOWさんはすぐ動き出したじゃないですか。そういう人がいち早く動いているのを見て自分たちも何かしなきゃなと。一週間前のツアーファイナルにBRAHMANが出てなかったら、俺もMEANINGもスピーディに動けてなかったかもしれない。バンドに知名度がそこまでないから、何をしていいかも分からなかったし、どうしようどうしようって思いながら時間が過ぎていったと思う」
--うんうん。そして2012年4月に「東北ライブハウス大作戦」を支援するためのチャリティ・シングル『-THE UNBROKEN HEART-』を自主制作という形で発表。さらに初の映像作品(DVD)と10分を超える大作シングル(CD)のカップリング作品『- MEANING to be here… / To the Future -』をPIZZA OF DEATHからリリース。怒涛の期間というか……張り詰めていた印象だったんですけど、今振り返るといかがですか。
HAYATO「この時期忙しすぎて鬱みたいな感じになっちゃって。精神的に削られながら、何かをやってたというか。常に何かに追われていて、人と会いたくないし喋りたくないし家から出たくないし。家でずーっとMEANINGの映像をチェックし続けるのがイヤだった」
--バンドに対するネガティブな感情ではないんですよね?
HAYATO「じゃない。細かい作業がキツかった。そのうえで仕事が9時23時とかだったから。でも別にライブはいいんだよね。ライブはいつも通りたくさんあったし、5人でこうやって会うと全然大丈夫だった。でもそこに行くまでが大変で、電車に乗りたくなくて」
INOMAN「あの時期の日高さんのスケジュールはすごかった。ライブ終わって、チン(THINK AGAIN)と物資を届けるための車を借りに行って、物資を置く場所を確保して、さらにMEANINGの制作作業して……って感じで」
HAYATO「それで、自宅に帰るとDVDの作業があって……ああ仕事行かなきゃいけないと思うんだけど、もう動けなくて。当時KAWAGUCHIくんと職場が一緒だったから、KAWAGUCHIくんにだけ“今こういう状態で仕事に行ける状況じゃない”って話をしたらKAWAGUCHIくんが“俺にできることがあったらなんでも言って”と。その言葉で気持ちが楽になった。そのあとDVDの編集が片付いたら嘘みたいに落ち着いたんだけど」
--なら良かった。
HAYATO「うん、今は全然大丈夫」
--2012年9月には東北で“AIR JAM”が開催されて、MEANINGも出演して。出演が決まったときはどんな心境でしたか。
HAYATO「Kenさんからオファーをもらったときに“MEANINGが出ていいんですか?”って思わず聞いちゃったよ(苦笑)。もちろん出たいけど、もっと出るべき人たちがいるんじゃないのか、MEANINGがAIR JAMにふさわしいのかって……。でも“東北での開催だから、同じ熱量で動いている人に出てほしい”って言ってもらって、そういう理由だったらお願いしますと」
--AIR JAMのステージに立ったときはどんな気持ちでしたか。
HAYATO「出れてよかった。 “○○に出た”みたいなことをひけらかすことって好きじゃないんけど、“AIR JAM”に関しては本当に出れて良かったなって誇りに思ってる。なんでMEANINGが出てるんだろうって思っている人もいたと思うんだけど……これまでやってきた自負があったから、ただただその当時やってた人がそこに出るくらいだったら悪いけど俺らが出たいと思った」
--そしてその1か月後である2012年10月に2ndアルバム『Shine Our Journey』がリリースされますね。
HAYATO「2ndアルバムには1stに入れるべき初期の曲が入ったんだよね。“HERO”“PAIN ”“SMILE”……」
KAWAGUCHI「1stに“集大成”みたいな感じでこれまでの曲を入れるのは勿体ないなと思って、それで2ndまであっためてた。俺は天邪鬼だからね(笑)」
--ふふふ。歌詞には意外にも日本語が加わって、言葉の力がすごく強くなった印象です。歌詞のあるインスト“Letter From TOKYO”もあって。
HAYATO「インストはThis is KAWAGUCHIワールド。日本語は挑戦だった。メロディックを日本語でやるとダサくなりがちというか、共存が難しいと思ってたから。でもハードコアだとアリなのかなと。あれ(“MEANING TO BE HERE…”)は日本語でやる前は英語で考えてて、直前に日本語でやったら違和感がなかったからゴーを出したんだよね」
--今思うと、2ndアルバムはどんな作品になったと思いますか?
KAWAGUCHI「俺は自分の作品はどれも宝物だからどうっていうのはナイけど“俺の作品”って感じ」
HAYATO「悪い意味じゃなくて、良い意味で聴きやすいモノができたかなぁと」
YOKKUN「1stアルバムとは曲の感じも変わってて、ちょっとずつ細かい変化があったというか。至る所に工夫があった」
--その2ndアルバムを経て年末にMEANING主催のフェス“SPOOKY ZOO 2012”を川崎クラブチッタで開催して、FORWORDからねごとまで、錚々たるメンツが集結して(ASPARAGUS / F.I.B / FORWARD / LIFE / OVER ARM THROW / SAND / THINK AGAIN / UNITED / ねごと)。MEANINGがやりたいこと、MEANINGにしかできないことを示したかのようなフェスでしたよね。
HAYATO「そろそろウチらにしかできないモノをやりたいなと思ってやりだして。仲良いバンドや先輩を呼んでソールドさせるくらいのメンツを集めることはできるけど、それをやっても面白味がないというか。ウチらでしかできない組めないモノを組んで、それが浸透していけばいいなぁと。……(FORWORDの)ISHIYAさんに言われたもん。ねごとの後だったから、“嫌がらせか!”って(笑)。ジャンルが全然違うからね。でもねごとのときはFORWORDが袖で見ていて、FORWORDのときはねごとが見ていて。その光景がすごいなって感動した」
--2013年にも同会場にてこのフェスが行われましたけど、そういう繋がりに然り、独自の立ち位置を築き上げてきたMEANINGにしかできないことですよね。
HAYATO「うん。昔からよく言ってるんだけど、企画者だけ変わってメンツが一緒みたいなイベントがイヤで、人から誘われたときもそういうイベントだと出る意味がないなと思ってるんだよね。だから人が集まるのは分かってても面白くなかったら断るし、自分たちでやるならなおさら独自のモノを作らないとやる意味がないと思って」
--今日は7月にリリースされる新作“The Tragic World”のお話を聞いていきたいんですが……そんな10年の軌跡があったからこそ作れた新曲というか、一筋縄ではいかないドラマティックなハードコアサウンドで、めちゃくちゃカッコいいですね。
KAWAGUCHI「おお、聴いた? PSYCEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCKだった……?」
HAYATO「ハッキリ言ったね(笑)」
YOKKUN「1曲目“The Tragic World (But We must…)”はKAWAGUCHIくんがガッツリ作りこんでて、2曲目“Rise In Rebellion”は僕がやりたいことをやって。お互いやりたいことができたのかなって。全然違うカラーになった2曲だと思う」
KAWAGUCHI「作曲者が違うという意味では、1曲目は“DAHLIA”(作詞・作曲/YOSHIKI)、2曲目は“SCARS”(作詞・作曲/HIDE)みたいな感じ。それを意識したわけではないけどないんだけど」
--“The Tragic World (But We must…)”をメインで歌ってるのはKAWAGUCHIさんですよね?
HAYATO「そう。だからロングセットに入ったらすごく休めるなぁ、いいなあって(笑)」
--それは冗談だとしても(笑)、セットリストのなかに入ってきたらいいフックになりそうですね。
HAYATO「うん。曲が増えればその分球数が増えるというか、いろいろな変化球ができるワケで。セットリストって基本的にオレが決めるんだけど“こういう曲欲しかった”と思える曲ができたなと。もしかしたらこれから出るかもしれない……3rdアルバムの指針にもなりそうな曲だし、KAWAGUCHIくんとYOKKUNと良さがよく出た曲になったと思う。あとはもうちょっとYOKKUNがペースアップして作れたら俺は何もいうことはないです」
--そして3曲目にはMINOR THREAT の名曲“I Don’t Wanna Hear It”のカバーが収録されていますが、これはどういう風に選曲したんですか?
HAYATO「結構前から何かをカバーしたいって話をしてたんだけど、共通で好きな曲ってなくてKAWAGUCHIくんが“HAYATOがやりたいものでいいよ”って言ってくれて。で、マニアックなモノをやっても仕方ないし、いわゆる王道なモノがいいなぁと。さらにMEANINGって1分半くらいの曲ってないから、それくらいのサイズの曲でルーツが見えるものが良いなぁ、でもMEANINGの楽曲に近すぎてもあんまりルーツは見えてないなぁ……とか考えてこの曲になった。でも俺としてはMINOR THREATのカバーをしたSLAYERのカバーをしているのに近い感覚」
--ちょっと速いですよね。
HAYATO「そう。そこはイノくんに早くしてって頼んだ。でも最後のパートではKAWAGUCHIくんがMEANINGらしさを出してくれて」
--これもツアーで聴けるのかなぁなんて思ってるんですけど、ツアーはどうなりそうですか。
YOKKUN「あー……でもまだ新曲を合わせてないんですよ」
YUICHI「レコーディングしているときに歌を作ってたから、ちゃんと演奏したことはないんだよね。でもツアータイトルが……」
--“The Tragic World(But We Must…) EP TOUR 2014”ですからね。
HAYATO「楽しみ半分、不安半分。とにかく練習しよう!」
INOMAN「俺はすごく楽しみ。(会場の)渋谷 DESEOに関してはみんなが働いていたライブハウスの系列だから、同窓会じゃないけど。楽しくなりそうな気がする。シングルの1曲目に関しては前の2ndが終わってから最初につくった曲で、長いこと時間をかけてフレーズを作っていった作品だったから。やっとライブでできることが嬉しい」
--期待してます。今日は10年を駆け足で振り返りましたが、これからの10年はどうなりそうですか。
INOMAN「60歳くらいまで続けたいなぁ。こういう曲って叩くのに体力がいるから難しいかもしれないけど、ずっと続けたい」
YUICHI「10年後は47(歳)かぁ。INOMANが60歳のときには……。う~ん、とにかく生き延びたい」
HAYATO「俺、10年後は42歳だからなんとかがんばれそう(笑)。でもホントに、これからの10年は今までとは違ってプライベートでいろいろなことが起きると思う。そのときにムリしないで……爆発的なブレイクとかなくてもいいけど、ちゃんと勢いを落とさず続けていきたいなと」
--変な話ですが、爆発的に売れたいって野心はないんですか?
HAYATO「それはあとからついてくるものだと思ってる。もちろん売れたら嬉しいけど、もともとそれを目標でやってるワケじゃないから」
--じゃあMEANINGの目標を最後に教えて下さい。
HAYATO「長く続けることかな、俺は。……それだと短絡的かもしれないけど。この5人で、ずっとMEANINGを続けていくこと。それが目標です」
INTERVIEW BY 逆井マリ
--A.O.WのVo.ソウイチロウさんに“MEANINGはやりたいことが明確になったから動き出します”と宣言したと。“やりたいこと”という部分をもうちょっと具体的に教えてもらってもいいですか。
KAWAGUCHI「ウチらはああいうハードな楽曲だけどメロディを歌ったりするし、アルペジオも入っているし──YOKKUNが“Hope”のメロディに歌を乗せたときから、それに対してなんの違和感もなかった。あの曲があるからセルアウトってワケじゃないし、ハードコアに対する気持ちは今まで一回も忘れたことないけど……たとえば新人のハードコアバンドで恵比寿リキッドルームを埋めるってすごく難しいじゃない? でもそれができるようになりたいって、漠然とそう思ってた」
HAYATO「もうちょっとオーバーグラウンドに出ていける可能性があるなら、どこまでいけるかやってみようと。でも具体的に何をしたかって言ったら何もしてないし、何も変わってないんだけどね」
--いや、それは大きな変化ですよ。INOMANはそういった変化をどう感じていました?
INOMAN「あ~……。俺のなかでのMEANINGの転換期は、初めて行ったマレーシアツアーで(2007年/“MEANING is ready to FUCK the WORLD TOUR” シンガポール・マレーシアツアー)。すごく楽しかった。終わったあとに珍しくメンバーみんなで話をして“国内でもツアーをしてみたいね”って。そんな話をしていたときに、たまたま先輩のバンドが解散するから車の貰い手を探していると。で、その車を譲り受けて、それから地方に行くようになった」
HAYATO「当時はMEANINGがバンドみたいなことしてるって戸惑いを感じてた(笑)。でも楽しかった。全然お客さんはいなかったけど、ホントに楽しかった。でも一生懸命にやるようになってから、一回YOKKUNが崩壊したよね」
--そうだったんですか?
YOKKUN「別に崩壊してないんですけどね。車で移動するようになってから、決まりや考えなきゃいけないことがどんどん多くなってきて」
KAWAGUCHI「そのストレスがたまったのか、群馬のライブ中、オレのポコチンを殴ってきたことがあって(笑)。その時はそこまで気にしてなくてライブが終わったあとに普通にYOKKUNと話してたんだけど、HAYATOが煽ってきて、俺も“なんで殴られたんだろう”ってだんだんムカついてきて “そういや、なんでライブ中に殴ったんだよ”って聞いたら“川さんが気合い入ってないから”とか言い出してホントに喧嘩になっちゃって、A.O.W.のそうちゃんが止めてくれて(笑)。別に手を出すってことはないんだけど」
HAYATO「当時はKAWAGUCHIくんとYOKKUNがケンカしたり、俺とYOKKUNでステージ上で口喧嘩したりしたり。お互いにイライラしていたというか」
--それは“もうバンドやりたくない”みたいなイライラではないんですよね? 過渡期ならではのモノというか……。
HAYATO「うん。ライブが終わったら普通に楽しく過ごしてた。なんだったんだろうね、アレ」
KAWAGUCHI「10分くらい喧嘩してて、“まぁ、いいや、じゃあビール買いに行こう”ってなってたよね(笑)。深刻にムカついたことはないんだけど……ジャレあうことがよくあった」
--兄弟ケンカみたいな感じというか。
YOKKUN「そんな感じ。そういうことがステージ上で昔はあって。なんていうか“自分たちだけ楽しければいいや”って感覚があったけど、それが徐々に変わってきた」
--そういう感覚は全員共通してあったんですか?
KAWAGUCHI「“ちゃんと弾かなきゃ”とか、そういう葛藤みたいなモノはあったかも。当たり前のことなんだけど、当時は誰もお客さんがいなかったからギター振り回しても誰にも当たらなかったからね(笑)。でもお客さんからきちんとお金をもらっているワケだから……そういう責任感みたいなものを感じるようになったかな」
INOMAN「どうだろう。俺はゆうさん(高田)が入ってから、ちゃんとやらなきゃなって思うようになった。ゆうさんはいまだにそういうところがあるんですけど、なんでもネットに書いちゃうんですよ。当時はそれが凄く恐怖で(笑)。当時、すっごく覚えていることがあるんだけど……SNSのMEANINGのコミュニティの管理人をゆうさんがやってて、俺のことを“フィル(イン)で走ります”って紹介してて。あ、俺は走るとこの人に書かれるって(笑)」
YOKKUN「それで今度はイノくんが精神崩壊しちゃって、ハゲちゃったんだよね」
--そんなに?(笑)
INOMAN「それはゆうさんのせいではなくて、いろいろな要因があって……確かにハゲちゃった時期もあったけど(笑)、とにかくゆうさんは脅威だった」
HAYATO「あーでも確かに、当時はホントに大変だった! 何回かキレたことあったよね。ゆうちゃんはホンットにコントロールができなかったから」
--ではちょっと話を整理すると……MEANINGが変わり始めてきたのが2007年~2008年。2008年はKen さんのツアー“Ciao Baby Tour” に参加したり、A.O.Wと合同企画を行ったりとこれまでの活動が実を結んだかのような年で。でもその年にmamiさんが脱退します。mamiさんの脱退、YUICHIさんの加入はどういう経緯だったんでしょう。
HAYATO「えーっと……ゆうちゃんが加入する前にPIZZA OF DEATHからCDを出さないかって声をかけてもらってて。KenさんがMEANINGのことをすごく気に入ってくれてたんだよね。PIZZA OF DEATHから声をかけてもらったことはもちろん嬉しかったんだけど、俺だけちょっと悩んでて(中野)MOON STEPのライブの日に楽屋でその話をみんなにしたの。“PIZZA OF DEATHから話をもらってて俺はやりたいと思っているけど、俺たちが元々行きたいと思ってた(アンダーグラウンドな)場所には二度と戻れなくなるかもしれない。どうする?”と。そしたらKAWAGUCHIくんとイノくんが“やろうよ、 そんないいチャンスないよ”と即答してくれて。で、すごく覚えてるんだけど……その日ライブが終わって、さあ帰ろうかってなったときにmamiちゃんが“私、家庭の事情でやめようと思う” “私が頑張るのはここまでかもしれない”って」
INOMAN「覚えてる。外に出たときに“ちょっと話がある”って言ってね」
--そうだったんですね。HAYATOくんはどう答えたんですか?
HAYATO「でも事情が事情だったから、全員が“しょうがないね”という感じだったかな。PIZZAOF DEATHから出すとなったらバンドにもっとに力を入れなきゃいけなくなるし、続けることは難しかったんだと思う」
--なるほど。HAYATOさんはそのあとのフィリピンツアー“MEANING is ready to FUCK the WORLD TOUR”でベースを弾いていましたよね。
HAYATO「うん。あのときはもうゆうちゃんが入ることが決定してたんだけど、まだ状況が整ってなくて、とりあず4人で行ったんだよね」
--そうだったんですね。ではYUICHIさんが加入した経緯は?
YUICHI「当時HAYATOのやってたバンドがELLEGARDENのツアーのゲストに出てて、ライブを見て“なんだ、これ”って(笑)。そこで少し交流が持ったんだけど──」
HAYATO「いや、交流なんてなかったよ(笑)。2週間くらい一緒にツアーしてたのに、全然しゃべってない。それなのにお互いの携帯番号が入ってたという」
YUICHI「まあ、俺自身があんまりしゃべってなかったしね。で、ELLEGARDENが休止したあとに何かやりたいなぁと思って、HAYATOに電話してみた。そのときHAYATOが何をやってるかは知らなかったんだけど」
--なぜHAYATOさんが思い浮かんだんですか?
HAYATO「なんか面白いと思ったんじゃないかな? 当時周りにハードコアっぽいバンドはいなかっただろうから」
YUICHI「当時はそんなこと考えてなかったけど……歌モノで勝負しても勝てる要素はないから、じゃあ俺は独自の路線でいこうって考えが働いたのかも」
HAYATO「で、俺が2個バンドをやってたから“どっちかに入れろ”と言いだして」
YUICHI「そしたらMEANINGでベースが抜けたと」
--すごいタイミング。
HAYATO「確かにすごいタイミングだった。誰かベースやりたい人いるかなぁって話をちょうどKAWAGUCHIくんと話をしてたんだよね。ゆうちゃんは自分からやりたいって言ってくれたし、やりたい人にやってもらいたいねって。INOMANとYOKKUNはそこまでELLEGARDENに詳しくなかったけど」
INOMAN「もちろん知ってたけどね」
YOKKUN「うん」
HAYATO「で、横須賀のかぼちゃ屋にMEANINGのライブを見にきたりしてて。で、2回くらい見に来てくれて“どうだった?”って聞いたら“わからない”って(笑)」
--お互いそんな調子でも、やっぱり音を合わせたときはクるものがあった?
HAYATO「う~ん……ビッとこなかったなぁ(笑)。いや、うそうそ。単純に上手だなって思った」
INOMAN「うん。すっごくやりやすくてビックリした」
--で、いきなりインドネシアツアーMEANING is ready to FUCK the WORLD TOURだったんですよね。
HAYATO「あれはゆうちゃんとどのタイミングで発表しましょうかって話をしてて。“高田雄一加入の最初のライブはインドネシアです”“ズコーン!”みたいな感じにしようって……」
--“気軽に行けねぇよ!”っていう。実際どうでした?
YUICHI「うる覚えの状態だったからいろいろめちゃくちゃでした。やりながら曲を把握していって」
HAYATO「でも最初が海外だったからこそ打ち解けられたというか、仲良くなったよね。言ってもゆうちゃんはおじさんというか、YOKKUNと10個くらい違う。そんなに年の離れた人と何かをやるって大変だと思うんだけど、最初からぎこちない感じはなかった。ゆうちゃんのライブのスタンスもちょうどよかったんだよね。前に出すぎる前でもなかったし」
--YUICHIさんが加入してから、注目度が上がってお客さんがどんどん増えていきましたよね。
HAYATO「当時は……俺やYOKKUNは、それに対してヤキモキしてたところがあった。何かを言うわけではなかったけど。知らないお客さんがたくさん来るし、いきなりいろいろなイベントに声をかけてもらったりするようになるし」
--今考えると良いことではあるんだろうけど、当時は戸惑いもあったと。それが2009年で、2010年11月にはPIZZA OF DEATHから待望の1stアルバム『BRAVE NEW WORLD』がリリースされます。
HAYATO「リリースが決まってレコーディグして、実際に1stアルバムを出すまでめちゃくちゃ長かったんだよね。半年……いやそれ以上だったのかな? 発売前にPIZZA OF DEATHのコンピレーション『“The Very Best of PIZZA OF DEATH II”』に出させてもらったり、Ken さんの“DEAD AT BAY AREA”(神戸国際展示場、幕張メッセ)に声をかけてもらったり、いろいろあったんだけど」
--“DEAD AT BAY AREA”はどうでした?
KAWAGUCHI「はじめての幕張メッセは目から鱗だったな。だってライブが終わってギター置いたら……自分で片づけなくていいんだよ? 片づけてもらえるんだよ。スタッフのひとが後ろにはけてくれるからさ」
--そういう喜び?(笑) ステージに立った時はどんな気分でしたか。
HAYATO「すごかった。あれはちょっと異常だった。だってそれまでは人がいっぱいいるっていっても400人とか500人とかで。で、神戸の“DEAD AT BAY AREA”で5000人、幕張で10000人の前に出ていって……10000人がどれくらいか、よく分かってなかったよね。でもあのとき“MEANINGって意外とちゃんとできるんだな“って思った記憶がある」
KAWAGUCHI「ああ、そうだね。ステージ出ちゃえばいつも通りというか」
HAYATO「でもYOKKUNがすごく緊張したよね」
INOMAN「俺も緊張してた。そしたら楽屋でゆうさんに“うわ、ちっさ!”って言われた」
YUICHI「そうだったっけ」
--(笑)PIZZA OF DEATHに入ってMEANINGの気持ち的に変わったところはありましたか?
HAYATO「基本的なところだけど“お金を出してくれる人がいるから、もういい加減なことはしちゃいけないよ”って話をみんなにしたかな」
--プレッシャーもあったんでしょうが、PIZZA OF DEATHから出せる喜びみたいなモノも感じていました?
一同「(頷きながら)あった」
INOMAN「それもあったし、俺はちゃんとしたCDなんて出したことなかったから、MEANINGのCDが並んでいるのを見たとき純粋に嬉しかった」
INTERVIEW BY 逆井マリ
Vol.3 へ続く
--10周年おめでとうございます。10周年を迎えて率直にどんな心境ですか?
HAYATO「10年よく持ったなって感じかなぁ」
KAWAGUCHI「いや、俺は“持った”っていうよりは当然という感じ。自分が楽しくてやってるだけだから、10年が特別という感じはしてなくて。しかもやりたいメンバーと一緒にやってたら、10年なんて余裕というか」
HAYATO「お、カッコいい。10年一緒にいると……バンドはもちろんプライベートも10年間一緒に動いているワケだから。みんな元気に10年できたのは凄いと思う。特にここ2、3年はそう思うな」
YUICHI「ま、僕は途中参加ですけどね。あれ、もしかしてこの2人(YOKKUN、INOMAN)ってMEANINGを始めたときは10代だったの?」
YOKKUN「19、20歳とか。僕も途中参加なので9年目なんですけど、9年間、すごく早かったです。当時は若かったなぁ……とにかくガムシャラでしたね。昔と今ではライブに対する想いが変わってきたかなという気がしてます」
INOMAN「当時YOKKUNの髪の毛が青かったよね」
YOKKUN「青かったです(笑)」
HAYATO「で、10年経って、今はイノくんの髪の毛が青いという」
--(笑)INOMANは10周年を迎えてどんな気持ちですか?
INOMAN「僕はプライベートも何も変わってないので、あんまり10周年って実感はないかも」
--なるほど。今日は10周年を振り返るインタビューなので改めていろいろと聞いていきたいのだけど、結成のきっかけはバイト先のライブハウスだったんですよね。
HAYATO「そう、渋谷のライブハウスで働いてて、俺がIDチェックをしてKAWAGUCHIくんが(チケットを)もぎってて、受付のある階段の踊り場に7時間くらい一緒にいるワケですよ。だから自然といろいろな話をして……随分昔のことだから忘れちゃってるけど、KAWAGUCHIくんがよくNo Use For A Nameの話をしていたのをは覚えてるな。もう1個覚えているのは、俺がやってるバンドに入ってくれって言ったらハッキリ断られたこと(笑)」
KAWAGUCHI「そういうこともあったね」
--それはMEANINGではないんですよね?
HAYATO「そう、当時やっていた別のバンド。そこにベースで入って欲しいと言ったら“それは断る”って、すごくハッキリと言われた。それでそのまま返す刀で“じゃあもう1個やろうよ!”って。それがMEANINGだった」
--KAWAGUCHIさんはなぜ最初に声をかけられたバンドを断ったんですか?
KAWAGUCHI「う~ん、趣味じゃなかったというか。一時だけやるのも良かったのかもしれないけど……HAYATOのことは好きでも音楽が好きじゃないと“ずっとやっていく”という気持ちになれない。いつか辞めようかなと思っちゃうくらいなら、長くやれるバンドをやりたいなって」
--当時からKAWAGUCHIさんは他のバンドをやっていたんですか?
KAWAGUCHI「そう。音響系うたモノみたいなバンドで、当時はベースをやってた」
HAYATO「そのバンドのステージを見たことがあったんだけど、KAWAGUCHIくんがめちゃくちゃカッコよくて。センターにいるワケじゃないのに、立ち振る舞いが素晴らしくて。それでバンドに誘ったらフラれた(苦笑)」
--でも、だからこそMEANINGが誕生したという。では、KAWAGUCHIさん以外のメンバーはどういう風に声をかけていったんですか。
KAWAGUCHI「イノくんは音楽の専門学校に通ってる学生で、仕事仲間だった。イノくんも別でバンドをやってたんだけど“もう一個くらいやってもいいんじゃない”って声をかけて、さらに同僚のmamiちゃん(現在脱退)を誘って。mamiちゃんは昔から “バンドをやりたい”って言ってて。バイオリンとギターは持ってたんだけど、MEANINGのためにベースを買って1から始めたという」
--最初はなんのコピーをやってたんですか?
HAYATO「From Autumn to Ashesっていうスクリーモとメタルコアを交ぜたような当時アメリカで人気があったバンド。で、そのコピーバンドを始めたら、突然イノくんが“僕辞めます”って言い出して」
--それはまた急展開ですね。
INOMAN「その時は、ちゃんとバンドをやるっていうよりも……コピーバンドをやろうって感じなのかなと思って。From Autumn to Ashesがツインペダルなのね。そのときツインペダルなんか持ってなかったし、踏んだこともなかったし、要はできなかったの。もしこういうバンドを続けるんだったら“俺できないから辞めます”って。ほかのバンドもやってたし」
HAYATO「当時は“忙しい”って理由だったんだよね(笑)。学校もあるから忙しいって言ってて。じゃあドラム探さなきゃねってなったんだけど、しばらくしたらイノくんが……学校を卒業して時間ができたのかな? “やっぱり僕、MEANINGやりたいです”って言い出して。だから実はINOMANがMEANINGを一度つぶして、復活させてるっていう(笑)」
INOMAN「そう聞くとホントにワガママだなぁ、すみません」
HAYATO「それが2004年で、6月25日にMEANINGとしての初ライブをやるんだよね」
--その時はもうオリジナルをやってたんですよね?
HAYATO「そのライブのときはもうオリジナルだったと思う」
--いざオリジナルをやろうとなったとき、どういうバンドにしたいみたいな話し合いをしたんですか?
HAYATO「いや、そんなことは話したことなかった」
KAWAGUCHI「うん。ハードコアだったらいいやって感じ。mamiちゃんもハードコア好きだったし、INOMANはどんどんハードコアにハマっていったし」
INOMAN「日本の有名なインディーズシーンのパンクは聴いたことあったけど、ハードコアは意識して聴いたことがなかったから、いっぱい教えてもらって。見事にハマっていった」
--なるほど。で、その約1年後YOKKUNが加入します。YOKKUNはどういう経緯で加入したんですか?
YOKKUN「2005年の年末に入りました。MEANINGが始まったころくらいに(HAYATOたちが働いていたライブハウスと同じ系列の)渋谷TaU kitchenに入って。一緒に働いていたので、MEANINGはずっと見てました」
KAWAGUCHI「当時、MEANINGの練習をTaU kitchenでやってて、YOKKUNは“PAの練習をしたいから”って俺らの音を出してくれてたんだよね」
YOKKUN「そうです。バンドじゃなくてPAをやりたくて上京したので」
--当時PAとしてMEANINGを観ていたときは、MEANINGに入りたいと思ってたんですか?
YOKKUN「いや、別に……。一緒にいるのは楽しかったんですけど、加入するとは思ってなかったです」
HAYATO「俺はそのころYOKKUNのいるTaU kitchenにヘルプで入ることが少なかったからあまりYOKKUNのことは知らなかったんだけど、KAWAGUCHIくんがある日突然YOKKUNを連れてきたの。で、俺は“あの子はどこの子?”って(笑)」
YOKKUN「で、俺はギターを一応弾けたから…… “ギターはもういるけど、今度一緒に音合わせてみる?”みたいな話になって」
HAYATO「でもKAWAGUCHIくんが誘ったときは首を捻ってたんだよね。“ギターはなぁ、キーボードで入ろうかなぁ”みたいなことを言ってて、KAWAGUCHIくんが“そんなしょうもないことを言うなら別にいいよ。ビビってんだったらいいよ”って(笑)」
HAYATO「で、年末にKAWAGUCHIくんがブッキングしている30バンドくらい出るイベントにMEANINGも出るから、そこをお披露目ライブみたいな感じにしようと。そこでトリプルギター編成になった」
YOKKUN「初ライブは楽しかった。ステージ上だと素になれるというか、東京に来て間もなくて仲のいい人も少ないなかで、やっと自分の居場所を見つけた気がしました。バンドって楽しいなって思ってきちんとやろうと。でもそのときは、月1回ライブをやるかやらないかだった」
HAYATO「うん。どうもMEANINGっておふざけバンドみたいな扱いをされてて、あんまりライブに誘ってもらえなかった。それで一回KAWAGUCHIくんに“やるからにはマジでやりたいんですけど”って相談して」
KAWAGUCHI「ふざけてるつもりは全くないんだけどね」
--それは残念ですね。でも当時から定期的にデモを発売したり(現在は完売)、イベントを開催したりとマイペースながらも本腰を入れていた印象なのですが、なぜおふざけバンドと思われていたんだと思いますか?
HAYATO「それぞれ他のバンドをやってたからかなぁ。KAWAGUCHIくんとINOMANはSethの前身バンドをやっていたし、俺も当時やっていた別のバンドで忙しかったし、MEANINGとしてはあんまり声をかけられなかった。あとは……単純にあんまりカッコよくなかったのかも」
KAWAGUCHI「そうかもね。でもそういう状態が続いていたけど、A.O.Wと出会ってからたくさん声をかけてもらうようになっていった」
--A.O.Wとは2007年に合同企画を行ってますよね。
HAYATO「当時同期みたいなバンドはいなかったし、先輩たちからは相手にされなくて。A.O.Wと一緒に頑張っていこうみたいな空気ができてきて。合同企画をやったり、一緒に先輩のライブにお邪魔して恐る恐る声をかけさせてもらったり、そういうことをやってて。でも……当時はなかなか相手にされなくて “俺、悔しいです!”ってKAWAGUCHIくんに言ったのを覚えてるな。そのとき敬語だったことまで覚えてる」
--それはすごく悔しいと思う。その状況を打破するために、どんなことをしたんですか。
HAYATO「俺とKAWAGUCHIくんがハードコアを好きって理由だけでいわゆるそういうシーンにどっぷり浸かるのはどうなのかなって話をして。当時はジャパニーズハードコアのシーンに憧れが強かったし、そこの人たちに認めてもらいたいという気持ちがとにかく強くて。もっと言うと、そこのシーンに入りたかった。でもそこに一回入ると外に出れないし、仮に外に出たらもう戻れないじゃないですか。せっかくバンドをやってるんだから……セルアウトと言われても良いから、いけるところまでこのスタンスでやってみたいねって。で、A.O.Wのそうちゃん(Vo.ソウイチロウ)に“MEANINGはやりたいことが明確になったから動き出します”と話して。そこからMEANINGが変わってきた」
INTERVIEW BY 逆井マリ
Vol.2 へ続く