『横山健の別に危なくないコラム』
Vol.93
2016年4月の九州地震において亡くなられた皆様のご冥福をお祈りし、被災された皆さま、怖い思いをされた皆さまには心よりお見舞いを申し上げます。
「Dead At Budokan Returns」
終わった。やり切った。
あれから1ヶ月がたった。
オレは本当に良い人達に囲まれて、良い人達の前で演奏できてるんだなとつくづく思う。いや、演奏じゃないな、「生きてる」んだ。「良い人達の前で生きてる」んだ。観に来てくれた人、一人一人に「ありがとう」って言って周りたいくらいだ。
武道館はやっぱり特別な場所だった。今回もまたもやその正体は捕まえられなかったけれど、やっぱり特別な場所だった。
前回のコラムで約束した通り、「自己ベストを更新してやろう」とステージに上がる瞬間にちゃんと頭の中で文字で思い浮かべたし、実際に更新しちゃったと思う。
チープだけど「最高だった」という以外ない。言葉はもうみつからない。無理やり探そうとするからダメなんだ、「最高だった」でいいか。
武道館、また戻れる日があったら戻りたいな。
ありがとう。
ありがとう。
Photo by Teppei Kishida
「東京スカパラダイスオーケストラ」
やっと発表になった。
東京スカパラダイスオーケストラ feat. Ken Yokoyama という名義で、6月22日にシングル「道なき道、反骨の。」を発売する。
この楽曲は、「凶悪」の白石和彌監督の新作映画「日本で一番悪い奴ら」の主題歌にもなる。映画の予告編を見たのだが、めちゃめちゃおもしろそうだ。6月25日封切りなので、興味がある方は是非劇場で映画を楽しんで、曲も楽しんでもらえたらと思う。
さて今回は、東京スカパラダイスオーケストラ(以下スカパラ)の話をたっぷりしよう。
まずスカパラを知ったのはいつか…オレ自身はスカパラが出てきた時から知っていた。おそらくデビュー直後だろう。テレビの音楽番組に突然出てきた、スーツでキメた大人数の集団。ニコニコしてはいるが、いかにも「ワル」な空気が漂う人達。「スカ」をビッグバンドで、インストで演奏してた。かなり異色だった。もちろん、まだオレがハイスタを結成する前の話だ。
1991年に出したスカパラの3rdシングル「ホールインワン」にはブッ飛ばされた。スカ独特の軽快さと、歌詞というか「ホールインワン」と言うだけのフレーズ。
「スカコア」などが出てくる全然前の話なので…日本において「スカ」が認知されたのはスカパラの力によるところが大きいのではないか。もちろん Air Jam 2000 にも出演してもらった 「スカフレイムス」もいたが、「スカを日本のオーバーグラウンドに引き上げた」という意味では、スカパラの力が大きかったのではなかろうか…。
ハイスタで表舞台に出てってからも、スカパラとの接点はなかった。クラブ人脈の友達から「スカパラのライブで」だの「メンバーの◯◯さんが」だの、そういった話は聞くようになったが、しかしオレ自身は接点はなかった。周りの友達もみんなファンだったし、オレも動きはなんとなく見てた。スカパラはみんなが気になってしまう存在だった。しかし接点はなかった。Ken Band を始動させてからも、やっぱり接点はなかった。
やっと直接話すようになったのは…オレの記憶が正しければ、2008年の Rising Sun Rock Fes. だったと思う。ケータリングエリアでミナミちゃんと一緒にテーブルを囲んでいたら、谷中さんが入ってきたのだ。ミナミちゃんは Kemuri 時代から知り合いなので、谷中さんもミナミちゃんと話そうと思ってフラッときたんだと思う。そこで「昔から知ってるスカパラ」の人と初めてキチンと話すことができた。
話はそれるのだが…前々からフェスの乱立にはなんだかなぁと思ってたオレだが、2000年代に入り、それこそフェスが乱立し始めてから、こうしたミュージシャン同士の交流がフェスの楽屋裏で盛んに、以前より容易に行われるようになったことは間違いない。フェスでしか会わない、むしろフェスぐらいにならないと会えない音楽仲間もいるだろう。事実オレと谷中さんも、このフェスがなければ知り合いになれてたかどうか…。これだけフェスが増えるとそれこそ「功罪」的な部分も出てくるが、こういったミュージシャン同士の交流の場として機能していることは「功の部分」だ。
オレもそのおこぼれに与り、谷中さんと連絡先の交換に成功した。
その後、谷中さんからメールが届くようになった。内容は…オレへの用事ではなく「詞」だった。曲はついてない、文字の羅列。「詞」なのだ。最初はびっくりしたが、人伝てに「谷中さんは自作の詞をメールする」と聞いた。それから半年や1年に1度くらい、詞が届くようになった。頻度はランダムではあったが、それを受け取るのはとても楽しかった。オレも感想を返したり返さなかったり…。
たぶんその頃は、スカパラが「歌モノ」を成功させた後で、バンドのイメージも「スカ」から「スカ+歌モノ」に上手く移行していた。それらの歌モノのほとんどの歌詞は谷中さんによるものだった。
谷中さんはバリトンサックスを吹くし、歌も歌うのだが、あの人はなによりも「作詞家」なのだ。
こうしてオレにとっては「スカパラ=谷中さんの詞」になっていき、その「谷中さんの詞」と向き合うようになっていった。
2002年頃から始まった「スカパラの歌モノ路線への移行」はものすごかった。何がスカパラをそう突き動かしたかは、オレには想像がつかない。しかしバンドをやる身として、そういった時どれくらいの勇気と団結力が必要かは、容易に想像がつく。
ピンのボーカルを擁さないスカパラは外部からゲストシンガーを招いて歌モノを発表していったのだが、そのシンガー達の顔ぶれがまた凄まじかった。「歌モノシングル3部作」と呼ばれた楽曲達は、オリジナルラブの田島貴男さんに始まり、チバユウスケ君、そして奥田民生さんが歌った「美しく燃える森」はシングルヒットした。どの楽曲も素晴らしかった。これを作り上げただけでめちゃめちゃすごいのに、その数年後に今度はハナレグミさん、そしてChara さん、仕上げになんと甲本ヒロトさんを招いて、新たな「歌モノ3部作」を完成させてしまった。もうヒロトさんとの曲なんて…夢に出てくるくらい好きだ。こうなってくると…オレの頭の中では「スカパラにシンガーとして招かれることは『一流のフロントマンの証』」的な意味合いを持つようになっていった。
この歌モノ路線は一体どこまでいくんだろう?と思っていた頃…今度は「バンドコラボ3部作」なるプロジェクトが発表された。コラボの相手になったバンドは、10-FEET、MONGOL800、そして ASIAN KUNG-FU GENERATION。
さてここまで読んだ方、「もしかしたら健も『自分の番はまだか?』とか思ってたんじゃねぇだろうな?www」とお思いのことだろう…しかし、それはそういうワケではなかった。冗談で「もしオレがスカパラにボーカルで誘われたら…」とか人に話したことはあるが、そう話すとみんな笑った。つまり「スカパラでフロントに立つ横山健」というのは、あくまでも「笑い話として成立してしまう」レベルの話だった。
さすがにバンドコラボが始まった頃は、声がかかったバンドが自分に身近なバンド達だったので「もしかしたら、そのうちに…ゴクリ」みたいな感じも無きにしも非ずではあったが、まぁ実際はそんな動きは微塵もなかったのだ。
簡単に言うと「指をくわえて見てた」のである。スカパラとイケてるフロントマン達が作品を発表するのを「…いいなぁ」と見てただけなのだ。
フェスでたびたび見かけるようになったスカパラのメンバー達、中には顔見知りになって挨拶できるようになった人もいれば、挨拶すらできない人もいた。谷中さんにだって声をかけられない時だってあった。
オレからみたら、スカパラは近寄り難かった。だって「ビッとしている」のだ。オレみたいな子犬みたいなのがキャンキャン寄っていける雰囲気ではないのだ。それに「怖い」。パッと見が「怖い」。怖いというか…ビッとしているから、それが怖く映るのだ。つまりなんにせよ、結果怖いのだw 中に入ってみると全然そんなことないってわかるのだが、もし中に入っていなければ、今年のフェスシーズンも怖いと思ってただろう。
ちなみに一度中に入った今言えることは…スカパラってコント集団みたいだ。いつでも冗談を言って、いつでもボケ合ってツッコミ合って、いつでも独特の共通言語を持って、いつでも笑いあってる(それでもベースの川上さんだけは、なぜか今でも怖いw)。
スカパラはオレより年上だ。ギターの加藤くんがかろうじて年下(それでもほぼ同世代)なのを除けば、全員年上なのだ。オレも46才にもなって、そうそう先輩もいなくなってきた。いや、いっぱいいるのだが、年下のバンド達がのし上がってきているから、相対的に先輩がいないように感じるのか…?
そんな中、オレの中でのスカパラは「究極のボスキャラ」になっていた。フェスの話ばかりで申し訳ないが、スカパラがトリを取るのなら文句はない。そういう「ラスボス」なのだ。少なくともオレとミナミちゃんにとってはそうだ。
時々…本当に時々、オレとミナミちゃんは「どのバンドに勝てるか、勝てないか」という話をする。話の中では…結局どのバンドにも勝てるのだ(猛爆)ミナミちゃんが勝てなさそうなバンドの話をして「でも…あのバンドのああいった部分はうちらにはない部分だし…」みたいなことを言いだしても、オレは「いや、でもそう来たら、それはオレ達のああいった部分で返して、ついでにオレ達はどうのこうの…」と、まるで「武井壮さんの百獣の王」みたいな感じで、絶対に負けない不毛な話になるのだ(猛爆)
しかしそんな中でも相手がスカパラだった場合…オレ達二人とも黙ってしまうしかないのである。「あの華やかさと迫力にどう太刀打ちするか…」、オレ達二人にとっては解く手掛かりのない永遠のテーマなのだが、つまりそれくらいの「強烈なボスキャラ」なのである。
本当に稀有な存在だ。スカという「アンダーグラウンド」な音楽を鳴らしながら、存在自体には「超メジャー感」がある。そういうメジャーな空気感を持つ人からしたら、たぶんオレみたいな「超アングラ」な奴のことは謎すぎてどう接していいか分からないのだろう…そう思ってた。
ここで25年ほど前にアルバイトしていたライブハウスで、ブッキング担当の人に言われた一言を思い出した。
「横山ってさぁ、『超インディーズ』って感じがするよなぁー」
バンドブームもいよいよ終わりの頃、バンドの大小にかかわらずメジャーの息がかかっていたバンドがいっぱいいた。世の中的には全くの無名なのに、ライブハウス界隈では大物、そういう人達が結構いた。その頃 A というバンドをやってた G さん、前やってたバンドがメジャーデビュー直前で解散し、新しく A というバンドを組んでオレが働いていたライブハウスによく出てたのだが、確かにメジャーデビュー直前までいっただけあって、華々しい感じはあった。その人が店に寄ってくれると店内が華やぐ、そういうムードを持っていた。その G さんを引き合いに出し「G とかってさぁ、なんか『メジャー感』あるじゃん?スター性があるっつーか、華があるっつーか。でもさぁ、横山って『いつまーでもインディーズ!』って感じだよなぁwwwwww」
オレもそう思った。もしかしたら、そのブッキング担当の人はオレを悪く言うために「メジャー」「インディー」という例を用いたのかもしれない。でもオレには全く、それが悪くは響かなかった。だってその後に組んだハイスタの活動の仕方、ピザオブデスの運営の仕方、もちろん Ken Band の活動の仕方も、どれをとっても「超アングラ」じゃないか。
もしかしたら、このブッキングの人の一言でオレはハッとしたのかもしれない。進むべき道が分かってしまったのかもしれない。
オレはいつまでたっても「超インディーズ」なのだ。
それはオレの誇りなのだが…「メジャーとインディーの、どっちがいい」だの、いまさらそんな話をするつもりはない。ただ「メジャー」な人達…メジャーのレコード会社であったり、大手の音楽事務所であったり、そういった環境でプレイしてるミュージシャンにとって、「横山健」っていうのはかなり謎な存在で、どう扱っていいのかもわからないのではないか?そんな風に思ってた。実際にそういう部分もあるだろうし、そのおかげで独特の在り方ができているのだが…一緒に演奏しようなんて壁を乗り越えてくる人達もはそういない。
しかし、今回は奇跡が起きた。「超メジャー」と「超インディー」の激突コラボが実現したのだ。
「超メジャー」のスカパラ谷中さんと「超インディーズ」の健は、メールという水面下で繋がっていた。谷中さんは常にオープンマインドな人なのだ(もちろん怖い時もあるがw)。
今回のコラボの話が出る前に、Ken Band がアルバム「Sentimental Trash」の楽曲を制作していた頃…2014年の夏前だろうか?「これにはどうしてもバリトンサックスが欲しいなぁ…」という曲のアイデアが出てきた。メンバーにも「誰かレコーディングでバリトンサックス吹いてくれる人、いないかぁ?」と相談したが、アルトサックスならいるけど、バリトンとなるとなかなか思い浮かびもしない。「…スカパラの谷中さんに話してみよっかな」と言うと、メンバーからは「えーっ!谷中さん、そんなこと引き受けてくれるかなぁ?」とか「ちょっと大物過ぎやしないか?」とか、不安の声が噴出した。そりゃオレだってその頃はそう思ってた。あまり柄にもないことを言うが、谷中さんにオファーすることは恐れ多かった。
その数ヶ月後、長崎の「Sky Jamboree」で共演した際に、オレは思い切って谷中さんに聞いてみた。「バリトンサックスありきの曲ができそうなんですけど…もし良かったらレコーディングで吹いてくれませんか?」そしたら谷中さんは満面の笑みを浮かべて「それは万難を排して行くよ!」と言ってくれた。
万難を排して行く…つまりどんな困難があろうとも(忙しかろうが、用事があろうが、調子が悪かろうが何だろうが)それらを排して参加してくれる、ということだ。オレ、この言葉は一生忘れないんじゃないかってくらい嬉しかった。ちなみにその場にいたギターの加藤くんも興奮してた。
また谷中さんのレコーディングに対する姿勢がすごかった。前もって送っておいた仮ミックスの音源に合わせて、たった数日しかないのにも関わらず自宅でイメージを膨らませてきてくれたのだが、さらにスタジオのブースに一人で入りフレーズをどんどん煮詰めていく。
極め付けはギターソロの部分。なんとバリトンサックスでギターソロを完コピしたのだ!これには驚いた。やっぱりギターのフレーズと管楽器のフレーズは違う。同じラインを取ってもニュアンスの違いが出てきてしまう…はずだったのだ。でもそれを軽々とやって、壁を越えてしまったのだ。めちゃ斬新でカッコ良かった。「使っても使わなくてもいいけど」と谷中さんは言っていたが、めちゃめちゃカッコ良かったのでもちろん使わせてもらった。
これには本当にビックリした。「まいりました…」と言うと、逆に「いや、健のギターのフレーズがいいからさぁ」とか返してくれる。そして楽器をしまいながらニヤッとしながら手帳を見せてくれたのだが、そこにはギターソロを自力で採譜したものがびっしりと書き込まれてあった。感服した。というよりも、谷中さんは変態だ、と思った(もちろん褒め言葉ですw)。
この曲は先述のアルバムに「Roll The Dice」というタイトルで収録されている。ちなみに谷中さんのプレイがあまりにも強烈だったために、Ken Band 4人だけで演奏する気になれず、いまだにライブで演ったことがない(猛爆)
このレコーディングのためのやりとり自体も半年くらい続いたし、現場でのインパクトもあったし、なにしろ一緒に音を重ねあった者同士の独特の感覚もあり、オレと谷中さんは今までよりもさらに一歩仲を深めた。
…ちなみにここまでが今回の話の序章です(猛爆)さらりと書くつもりだったが、スカパラを説明するのにさらりと書けるわけない。でもこれでも充分駆け足で話したつもりだ。
ここからが本題だ。
Ken Band のレコーディングも終わり、2015年の夏場はシングルのツアーに突入したりして、あまりフェスには参加しなかった。スカパラに会う機会もなかなかなかった。
そんな中、以前と同じようにまたポツポツと、谷中さんから詞が届いた。その中に「オレは世界を知っている」という詞があった。そうなのだ、オレとスカパラの大きなリンクできるポイントは、海外ツアーなのだ。スカパラは積極的に海外に出てツアーをし、フェスにも参加し、メキシコではなんと単独で6000人を動員したと聞く。ものすごい人気だ。
ある時、ギターの加藤くんがこんなことを言っていた。「ベルギーのどこだかわかんないような会場でやったんですよ。『こんな場所に来た日本人、オレ達くらいだろうなぁ』と思ってたら、壁にハイスタンダードのサインがあって!すげぇ、来たことあるんだ!と思って嬉しくなりましたよ!」、そうです、オレも行ったことあります。また加藤くんはメキシコで飲んでいる時に現地の人に「日本人ならハイスタンダード知ってるか?」と聞かれたそうだ。そこで、いつだかのフェスで二人で一緒に撮った写真を見せると、その現地の人はビックリしていたそうだ。
…そんなエピソードも聞いていたので、オレはその谷中さんが書いた詞にピーンと来てしまった。内容も「オレは世界を知っているえっへん」的なものではなく、「オレは世界を知っているけど…世界はオレを知っているのだろうか?知らせないのはもったいなくないか?」という、谷中さん独特の切り口の詞だった。オレは谷中さんにこう返信した。「ボク、この歌詞すごく好きです。もし…万が一…ボクがスカパラで歌うことになったとしたら、こういうことを歌うんだろうなぁって気持ちで読ませてもらいました!」
ちなみにそれに対しての谷中さんからの返信は特になかった(猛爆)
2015年の11月頃だっただろうか…そうだオレがハイスタでライブしてた時期、つまりケツに火がつきまくってた頃(猛爆)、突然谷中さんから詞ではなく、私信が届いた。
「今度スカパラで歌を歌ってくれないか?」
もう「…キ、キター!」なのである。
そして「もちろん万難を排してやらせてもらいます!」と返信した。
12月にはさっそくリハーサルに参加した。曲も詞もスカパラが書くものをやるのだ。しかもオリジナルの曲では初めての日本語詞を歌うのだ。これまでにも SION さんの曲をカバーしたり、突然ライブで日本語の曲をやったりしてはいたが、オリジナルの日本語詞は初挑戦だ。でも歌詞に関しては、谷中さんの書くものに対して全幅の信頼を寄せていた。
オレには「この人の歌詞だったら歌ってみたいなぁ」と思える人が何人かいる。歌ってみたいというか…好きな詞を書く人達だ。例えばもちろん SION さんだったり、ヒロトさん&マーシーさんだったり、エレファントカシマシの宮本さんだったり、10-FEET のタクマだったり、最近では WANIMA のケンタの歌詞も好きだ。そういう感じで「好きな詩人」というか「作詞家」というか、そういう人が何人かいる。谷中さんもその一人だ。しかも何年も谷中さんの心象風景をメールで見続けてきてるし、そういった意味でもちょっと特別な気持ちもあるし…とにかくあの人の世界観が好きなのだ。絶対にオレにはない視点、感性、風景の切り取り方…なんといっても谷中さんは「豪快で繊細」であり「繊細で豪快」な人だ(この二つは順番をひっくり返しただけだが、若干ニュアンスの違う二つの言葉)。それがこれでもかってほど文字に出てる。だってそれこそヒロトさんが歌った「星降る夜に」の「抱きしめたら 答えが出た このままでは いられないよ」なんていうオレが大好きな一節、こんなの谷中さんしか書けない。歌ってみたかった。
初めてのリハーサルの直前は、やっぱり緊張した。「どういうノリで曲作りするんだろう?」とか「歌が下手くそすぎてガッカリされたらヤバいなぁ」とか、余計な心配が首をもたげる。
スタジオの大きな部屋に入っていくと、スカパラの9人のメンバーが待ち構えてた。スカパラはゲストを招き入れ慣れてるだろうからどうってことないだろうが、オレはもう頭の中真っ白だ。真ん中を囲むようにして座るのだが、オレの左隣は谷中さんだった。ホッとするのだが…右を見るとサックスの GAMO さんだ。もうガクブルなのだ。
ところが後で聞いた話によると、スカパラもゲストと一緒に練習スタジオに入って曲作りすることはほぼないらしい。みんなレコーディングスタジオに来てもらって…もちろん事前に曲の細かいところについてのやり取りをしっかりと済ませてのことだろうが、いきなりレコーディングというのが通例らしい。どうやらオレは特例っぽい。それだけオレとのこのプロジェクトに力が入っているからなのか、それとも今までで一番お味噌的なゲストだからかどうか、その真意はまだ聞けてないw
あらためて自己紹介なんかしたりして、さっそく曲を聴かせてもらった。最初こそ緊張したが、もう緊張してる場合じゃない。同時にその場でスカパラもどんどんアレンジ作業に入っていく。オレもどんどん入り込んでいった。
ここでスカパラの曲作りを初めて体験するわけだが、これがとても興味深い。今回の曲の作曲者はベースの川上さんなのだが、みんなして細かいところまで意見を出し合う。ほぼ全員で、だ。
コード感や曲の構成などは、一番年下の加藤くんがタクトを振るってた印象だ。ドラムの茂木さんやもちろん川上さんも含め、バンド隊が構成をかなり細かくアレンジしていく。
ホーン隊は後付けかというとまったく違う。トロンボーンの北原さんがメインでアレンジするのだが、北原さんもコード使いやちょっとしたメジャーコード、マイナーコード、テンションコードの入れ方、曲全体をドラマチックにするための構成などをバンド隊と一緒になって討論している。
そして左を見ると、オレの譜面台に置かれた歌詞カードにひたすら目をやる谷中さん。キーボードの沖さんが歌詞について意見を言い始めたり…北原さんにメロディーラインの間違いを指摘されたり、お互い良い意味で遠慮がない。
本当に面白い。全員に役割があって、分業とも言えるが…結局「総掛かり」で曲に挑んでいっているのだ。そう、スカパラは現在9人なのだが、「要らない人がいない」のだ。「9人もいて、1人くらい気を抜いてる人がいるんじゃないか?」と普通は思うだろう。しかし、いないのだ。全員必要なのだ。
そして9人が9人ともレベルの高い「プレーヤー」なのだ。音楽的にとても豊かで、もろに「ミュージシャン」なのだ。そこから受けた刺激も大きかった。
年が明け、仕事始めはスカパラとのリハーサルだった。1月の中旬にはレコーディングが控えているのだ。オレが Ken Band の「Sentimental Trash ツアー」の後半戦が始まるので、スカパラとのレコーディングはかなり詰め詰めのスケジュールになってしまった。しかしやるっきゃない。「ツアーもあるしまた次の機会に…」とか言ってらんないし、言いたくない。
リハーサルは、正直ついていくのがやっとだった。スカパラは譜面を元に演奏するのだが、オレは譜面が読めない。感覚でついていくしかないのだ。あとは…冗談をブッ込むくらいしかやることがない(猛爆)
しかし冗談も言ってみるもんで、場は和み、自分が溶け込んでいくような気がして、最終的には「ボクは『健を呼ぶとうるさくてめんどくさいよなぁ』って思われるところまで行きたいです(キリッ」と言ってた(猛爆)そうやって冗談を言いつつ、時には谷中さんにシメられつつ、加藤くんを大笑いさせつつ、北原さんに突っ込んでもらいつつ、曲はカッコよく仕上がっていった。
…あぁ、ものすごい文量になっちゃったなぁ。2回に分けて書いた方がいいかな。いや、このまま進もう。
歌詞の話に戻るが…前にこのコラムでも書いた、昨年末の大阪で「Radio Crazy」に出演させてもらった時の話。唐草模様の風呂敷が The Birthday のチバくんから最終的には谷中さんの首にあったという話とても楽しかった。
実はこの日の Ken Band の出番前、喫煙所で一人ポツーンと座っている谷中さんを発見した。なにか考え事をしているようだった。この時にはもう曲作りリハーサル後のだったので、オレは谷中さんの隣に座り、「歌詞の進み具合、どうです?」と聞いた。そしたら谷中さんは「…もしかしたら、オレは健の人生を背負いすぎてるのかもしれない」とちょっと苦しそうに言った。オレはハッとしてなにか言葉をかけたが、もう何を言ったかも覚えていない。ただ「この人、こんなに責任感を持って、本気で入り込むんだ…」と強烈に思った。
1月になりレコーディングが迫ってくると、毎晩のようにメールが届いた。少しだけ言葉が変えられた、ニューバージョンの歌詞だ。毎晩、というかもう朝に近い時間だ。そしてスカパラのスタジオに行き、結構長い時間のリハーサルをする。「お疲れ様でしたー!」と帰ろうとすると、谷中さんは椅子に座ったまま眠ってしまっている。そりゃそうだ、朝方まで歌詞を考えていたんだから。眠いに決まってる。しかもスカパラもツアーをしていた時期だ。もう家に帰ったらさすがの谷中さんも泥のように眠るんだろうな…と思いきや、また朝方にちょこっと改良された歌詞が届く。こんなことの繰り返しだった。
ちなみに余談だがw、オレもオレなりにアイデアをぶつけてみた。例えば「こういう単語を使うのはどうです?」とか、「ここの歌いまわしを変えて、たくさんの言葉をブッ込むとかどうです?」とか…。しかし…1つも採用されなかった(猛爆)まぁこれはオレサイドの笑い話なのだがwww レコーディングの時も、恨めしそうに谷中さんに「オレのアイデア、採用ゼロですからねー」と言うと、「なんとか入れてみようって、オレだって考えたんだよ…」と申し訳なさそうにする谷中さんであった。
こういう背景を持って出来上がったのが「道なき道、反骨の。」の歌詞であり、歌詞が持つ世界観だ。
いよいよレコーディングに突入。
レコーディングではバンド全員が一緒に演奏した。オレを含めると10人で「せーの!」で演奏するのだ。あとで楽器ごとに録り直したりとか微調整したりとかの作業はもちろんあるが、大元は全員で作るのだ。これが「スカパラのグルーヴ」なんだ。
オレも仮歌だけど、一緒に歌った。でもオレがよれるとバンド全体のリズム感に影響を与えてしまうので、当たり前に全横山で歌った。こうやって歌だけ一緒に録るなんて初めての体験だった。役割の重さを感じつつも…なんと歌ってて生まれて初めて「楽しい!」と思ってしまった。
オレは歌を歌うのは特別好きじゃない、と公言してきた。事実、大して好きではなかった。そんなオレが「歌うのが楽しい」と思ったのだ。こういう体験が転機になることもあるんだ…こんなチャンスをもらったことが、言葉以上に嬉しい。このレコーディング以降、Ken Band でも歌うのが楽しいのだ。本当に何かを掴んだのか、何かをもらったんだと思う。
そしてドラムの茂木さんは、なんと2テイクでドラムを仕上げてしまった(長くかかるドラマーは10回も20回もやりなおすのが普通)。でもそれだけ自分がどう叩きたいか把握してて、曲全体の世界観も、バンドの在るべき姿も明確に把握していることの証左だと感じた。
ちなみに歌入れの最中まで谷中さんとの歌詞の修正作業は続いた。そして歌入れの時も、メンバー全員が意見してくれる。喜んでくれたり、ダメ出しされたり…ヘッドフォンから「いや、オレはいいと思うんだけどな」「もう一回やったらちょっと変わった感じが出てくるんじゃないかなぁ?」など、メンバー同士で討論しているのが聞こえる。ここでもまた「本気で総掛かり」なのだ。
最後の歌の編集作業の時には、パーカッションの大森さんがオレの気持ちを代弁する形でタクトをふるってくれた。ありがたかったし…本当に全員が必要なバンドだ。
レコーディングは2日間で終わってしまった。その後、日を改めてフォトセッション、そしてビデオ撮影と一緒に過ごす時間も多かった。
一緒にいる日が多くなるほど、オレは「スカパラに入りたい」と思うようになっていった(猛爆)いや、それは冗談だが、あながち冗談ではない。つまりそれくらいスカパラというバンドが大好きだし、一人一人のパーソナリティーが分かっていくにつれ、メンバー一人一人がどんどん好きになっていくのだ。あんなに怖かった人達が、だ(猛爆)オレがいる時に、オレが関係ない内容の業務連絡が始まると、わざと「オレ関係ないんで寂しいです!」とウザい発言してみたりwwwいつも帰り際には「次会えるのは…いつですかーーー!?」と言って帰る。GAMO さんには「今年はもうズブズブでいきましょう」とこっそり言ってある。GAMO さんからのオッケーはもらっているw
さぁ、スカパラが好きな方はもうお気づきだと思うが、まだ一人だけ名前が出てきていない人がいる。トランペットの NARGO さんだ。NARGO さんは寡黙な人で、リハーサルの時にも座る席が遠かったので、最初はあまり話さなかった。しかしレコーディングの時にロビーで二人の時間が結構あって、その時にどうでもいいような話だがいろいろ話せて、とても楽しかった。
オレが歌録りを終えた日、NARGO さんが先に帰っていったのだが、帰り際にわざわざオレのところに来てくれて、強い目力で「…やっぱ…ライブで歌ってる人は違いますね」と言ってくれた。その NARGO さんの感じが嬉しかったし、もちろんもらった一言がすごく嬉しかった。
こうして「道なき道、反骨の。」は作られた。
やった以上、いろんな反響が欲しい。売れるものなら売れて欲しい。
コラボシングルを出すことがウェブのニュースで流された日は、反響の大きさにびっくりした。興味を持ってくれている人が多いことがわかった。その興味を裏切らないようにしたい。
今後のスカパラの活動にも関わっていきたいし、なにしろ「健と一緒にやってよかったな」ってスカパラのメンバーにも、スタッフの方々にも思ってもらえるようにしたい。
だから数字としての結果も得たいのだが…しかしまぁ、今回のプロジェクトで誰が一番何を得たかって、それはオレが「挑戦」「経験」という財産を得たのではないだろうか。
それを以ってして音楽をやっていって、日本中をかき回すことがスカパラへの一番の恩返しになるのかもな、とボンヤリ思う。
ここで、このコラボシングルが発表になった時に投稿された、谷中さんからのメッセージがある。これがまた良いのだ…。上記の話をご理解いただいた上で読んでもらえると、谷中さんのコメントがよりリアルに感じられると思うので、ここでも紹介させてもらう。
「僕らの時代には反骨のヒーローが輝いて見えました。
彼らの生き様には社会人として不適切な行動があったとしても、世俗的な時流や不当な権力に対して抗う姿に、閃きや気づき、世の中を新しくしていこうという生命力の輝きを感じたのです。
今は反骨精神の時代ではないのかも知れませんが、今回は、あえて、スカパラと横山健でそれを謳おうと思ったのです。
夢を持って時流に反骨し、挫折しながら世の中を学び、仲間の大切さを知る。
これは人生に於いてとても大切なプロセスだと思うのです。 谷中敦(B.Sax)」
本当にこの歌詞は、「I Won’t Turn Off My Radio」同様、同世代を鼓舞するものであり、若い世代には「生き様」を見せつけ、それだけではなく「生き方を教える」優しさも持っている。
いろんな人に届いて欲しい、と心の底から思う。
最後の最後にスカパラについて、少しでも入り込んだ者として、目撃証言させてもらう。
スカパラは奇跡のバンドだ。
長い活動歴の中で、スカパラは何度も「顔」といえるメンバーを失ってきた。そのたびにきっと、バンドはいろんなことを考えて、感じて、挫折を味わったこともあるだろう。しかしそれでも彼らは歩みを止めなかった。止めなかったどころか、いま正に最前線にいる。もちろん努力は不可欠だ。しかし努力したって、報われないことだってある。
オレだってスカパラよりは短いが、そこそこキャリアもあって、いろんな苦しい場面を乗り越えてきたつもりだ。そして一つのバンドを続けられなかった経験がある。そんなオレからみると、たとえ体制が変わったとしても、一つの看板を大切にして、下ろさずに歩んできた…歩んでこれた。それは強い精神力を持つ個人が集まった集団が為すべき技であり、もっと言うとそれ自体が奇跡に思えてしょうがない。
そして、いるべき人がバンドに残っているんだなぁと感じる。
時には過去を振り返ることも大事だ。でも過去に縛られ過ぎることは良くないこと。
常に「前を向くこと」これが「奇跡のバンド、スカパラ」から学んだことだ。
オレもそれは実践しているつもりだが、あらためて先輩達にガツーンと食らったような気がする。
「レコーディングを終えた直後のバンドフォト。オラ、ス、スカパラに、な、なじんでるずらか?(汗)」
「And Your Birds Can Sing Ⅱ」
Jun Gray Records からコンピ第二弾が発表された。Kenco Yokoyama(猛爆)も無理やり参加した。
このコンピにオレ達は Sham69 の名曲「If The Kids Are United」のカバーを収録した。この曲は BBQ CHICKENS でもカバーしているので、オレ個人的には2度目のカバーになる。
でもこの曲にこだわるには理由があるのだ。とにかく歌詞が素晴らしい。オリジナルバージョンには若者達の分断を許さない姿勢が溢れている。 もちろん当時歌ってた Sham69 自身が若かったのだから、この「Kids」は若者という言葉に訳せる。
オレはこの問題だらけの日本に生きて、「分断されているのはなにも若者に限ったことではないな」と思うようになった。なので「Kids」とは歌っているが、オレは「オレ達」というつもり、全世代の人達、というつもりでこの曲をピックアップした。
この曲はメッセージとしてライブでやっていきたいと考えている。
…わかんない、コンピ第一弾に収録した Judas Preast のカバーは全然やらなくなっちゃったしなー(猛爆)
でもこの曲はやってく気満々だ。
「このようにして…」
スカパラとのコラボや Kenco Yokoyama でのコンピ参加。
Ken Band は自主企画「Rumble Of The Month」を開催…これは5月から8月にかけて、東京の大きめの会場でゲストバンドを迎えてやる、月一企画だ。
それから Satanic Carnival、Fuji Rock への参加も決定している。
動きまくっているのだ。
オレは、あの手この手で、皆さんの気を引くようにやっていく。
これは2010年の幕張メッセでやった「Dead at Bayarea」で放った一言だ。
あの時と全く気持ちは変わっていない。
武道館が終わったので一区切りついた感は、確かにある。
でもそれはただの「一区切り感」なだけだ。
それすなわち、燃え尽きたわけでは全くない。
物を作る人は一生懸命物を作って、物を売る人は一生懸命物を売って欲しい。
オレはこれからも、体力と気力の続く限り、自分の心に正直に音楽を鳴らし、刺激的な存在でいるように努め、皆さんの気を引くように、皆さんの視界に入っていくようにやっていく。
まだまだ見てて欲しい。
2016.04.18