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『横山健の別に危なくないコラム』

Vol.108

「Indian Burn」

Ken Yokoyama 8枚目のフルアルバム「Indian Burn」を先月リリースした。

8枚目。20曲入りのセルフコンピレーションアルバム「Songs Of The Living Dead」やミニアルバム「Bored? Yeah, Me Too」などもあるので、たくさんの作品を作ってきた感覚はあるが、20年かかって8枚のアルバム。多いのか少ないのか。まぁまず、8枚目のアルバムを出せるほどバンドが長続きしていることに感謝しなければならない。

あることを思いついた。バンドにとって8枚目のアルバムとはどんなようなものなのか、ある仮説を立てて論じてみよう。ボクの仮説は「8枚目のアルバムは、地味なものが多い」。

具体例を出してみると……8枚目のアルバムは NOFX でいえば「Pump Up The Valuum」、Green Day でいえば「21st Century Breakdown」、Metallica なら「St. Anger」……熱狂的に支持する人達もいるだろうが、バンドの過渡期などにぶつかるのだろうか、なんとなく地味な印象のアルバムが多い。気がする。

当然全てをこの仮説に当てはめるつもりはなく、そんなことなどどこ吹く風と言わんばかりに、傑作をリリースするバンドもいる。AC/DC は「For Those About To Rock」、Beatles にいたっては「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」だ。

ここで気づいたのだが、上記したバンド達は全て「若い頃に始めたバンド」、いわば彼らにとって「ファーストキャリア」と言える。この仮説を最終的にはボク自身のキャリアと紐づけたいのだが……ボクには Hi-Standard があり、Ken Yokoyama を始めた時にはすでに34才だった。もう少し別角度で探る必要がありそうだ。

勘の良い方なら、こんな仮説を立てて何を企んでいるか、ボクの魂胆がおわかりだろう。

それでは……Nirvana を経験し結成された Foo Fighters を見てみよう。彼らの8枚目のアルバムは「Sonic Highways」。アメリカの8都市に行って、その街のグルーヴを感じながら、その街のスタジオで録る、という手の込んだ段取りで作り上げた「コンセプトアルバム」と言える。考えてみれば Beatles の「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」も、混迷するバンド内や取り巻く状況の中で作られた「実験作」と言えなくもない……間違っても地味ではないが。

やっぱりボクの仮説は間違っていないかもしれない。キャリアや年齢に拘らず、ひとつのバンドで8枚ものアルバムを作るタイミング/局面は、バンドが集団として音楽的にも精神的にも消耗し、なにか新しいことや違うことを模索するものなのかもしれない。当然地味なアルバムや、企画物の性格を持ったアルバムも出てしまう、ということだ。

結論を急ごう。では、Ken Yokoyama の8枚目のアルバム「Indian Burn」は、どう位置付けられるアルバムだろうか。

このアルバムは、8枚目の難しさやプレッシャー、自分との精神的戦いを真正面から捉えて、さらにそれをバッチリと乗り越えてみせた「バンド史に刻む価値を持った名盤」なんではないかと。そう言い切って差し支えない気持ちだ。ウェーイ。

皆さんがズルッとコケている光景が目に浮かぶww 面倒くさいことを書き並べて、最終的に言いたかったことは、「ミュージシャンにとって難しい局面をボクはかるーく超えたよー」ということなのだ。もっと言うと「ボク、すげぇ」なのだww まぁいいじゃないですか、エンターテイメントですよww

さて、ボク達 Ken Yokoyama にとって8枚目のアルバムに向かっていく景色は、一体どんなものだったのだろうか。いろんな媒体ですでに発言していることと重複する部分もあるが、ご容赦いただきたい。

ボク達は相変わらず、実に「アナログ的手法」で作曲をし、「インディーバンドらしく」自分達で街の練習スタジオを週何回か予約し、せこせこと通っている。

「アナログ的手法」で作曲、というのは、ボクは曲が思い浮かぶと iPhone のボイスメモに弾き語りを録る。今っぽくデモテープなど作ることは一切しない。スタジオでメンバーに「今日は曲のネタがあるんだ」と言って、そのボイスメモを聞き直し、メロディーやコード進行、リズムなどをその場で伝える。それでみんなで演奏したものをまた iPhone に録り、家に帰って聴き直す。そして次回までにアイデアを練って組み立てていく。この連続だ。今どきそんな曲の作り方しているバンドいるだろうか?と自分でも思うほど、アナログに作っている。しかしそうすると、ちゃんと「バンドマジック」が曲の中に入り込むような気がしている。打ち込みでデモテープなどを作ると、「これでいいんじゃない?」となりがちだろうし、デモテープのイメージに縛られすぎて曲が伸びない恐れがある。それではボクにとっては、バンドである意味がない。そうしない理由の内の数割は「デモテープを自作できる環境がない、あったとしても恐らく作れない」というのもあるが……。

今作の曲作りにて、このバンドのスタジオでの作業は、明るく突破できたような気がする。

問題はその前だ。ボクが曲のネタをひねり出す行為、これが大変だった。曲の元ネタをひねり出すことは0を1にすること。バンドにさえ持っていけば、それを4人で100にも200にもできる。0を1にする作業はボクが孤独に立ち向かうしかない。

昨年の2023年、ボク達は3枚のシングルをリリースした。実はこれはバンドの当初の予定にはなく、アルバムに向かって曲作りをしていく中で、ボクが突然「シングルを3枚出してからアルバムをリリースしたい」と言い出した。

そう発想するにも、明確な理由があった。

これこそあちこちのインタビューで話しまくったことなので「その話題はもういいよ」と思われそうだが、ダメ押しとばかりにここで記しておきたい。読むのが面倒な方は、少し先に飛んでいただけたら、と思う。

楽曲の制作中、ボクは「アルバムの存在意義」を見失った。

理由としては様々な事柄が考えられる。まずコロナが挙げられる。コロナ禍の真っ只中でリリースされた7枚目のアルバム「4Wheels 9Lives」、リリースはしたものの満足なツアーができなかったので、しっかりとした手応えや実感を得ることができなかった。曲をリリースして、ライブで披露し、リリースした曲達が皆さんの日常や人生に入り込んでいることを確認する。ここまでがワンセットなのだ。実感できない最中に「Indian Burn」の曲の制作に入っていったので、「アルバムは作りたいが……果たして聴いてもらえるのだろうか?」と疑心暗鬼になってしまった。

それからアルバムの売上の低下も挙げられる。世界的にもはや CD は売れない。「なぜ売れないと分かってて、ボクは作ろうとするのだろう?」、アルバムを作ることはミュージシャンにとっては大きな作業だ。アルバムとは謂わば、人生を道と喩えるならば、大きな道標であり、マイルストーンなのだ。そのまままっすぐ行けば良い時期もあるし、曲がらねばならない時期だってある。後で振り返った時に「あのアルバムで転換期を迎えたんだな」「あのアルバムで見晴らしの良いところに出た」と感じることができる。とは言え……売れないものを金をかけてわざわざ作るのはとてもおかしな行為だ。これは「音楽だけは別」とは美化できない、とボクは考える。

「CD が売れなくてもサブスクで聴かれればいいんじゃないの?」と思われると思う。それは正論なのだが、膨大な数のカタログが聴き放題の中で、ニューリリースとはいえ、探し出してもらうのはなかなか難しいことだ。それにサブスクで聴かれてミュージシャンに入る金額に比べ、CD 1枚売れた時の金額の方が圧倒的に大きい。つまり極端に言うと、サブスクは「聴かれてバズれば良いが、そうじゃなければ聴かれないし、聴かれても金にもならない」のだ。

こんなようなことを感じていると、自然と「アルバムの価値はほぼなくなった」という着地点になる。

好きで聴いてくれている人達にとっては「そんなはずはない!」というような話だが、いざ「音楽好き」の輪の外に出てみると、案外そんなもんだ。

しかしなぜアルバムを作るのか?聴く側にとってはもはや価値はないが、演る側にとっては未だに手法として有効な形態だからだ、と答える以外ない。

それこそ「Indian Burn」の曲を深夜の自宅でひねり出していた頃……2022年の秋頃だろうか、ボクは完全に上記のような思考に捕われた。夜中に一人で考えることなんてろくなもんじゃない。それは分かっているのだが……考えてしまうもんはしょうがない。

曲のアイデアを思いついたのだが、しかしそれはアルバムの中の1曲に落ち着きそうな予感があった。その時にこう思ったのだ。「この曲、一体誰が聴くんだ!?!?」

自分の情熱や時間、いろんなものがもったいなく感じた。

繰り返すが、夜中に一人で考えることなんてろくなもんじゃない。しかし一度感じてしまったことは、それは自分の中では事実。ボクはバカだから、解決策を探る。頭の良い人は放って置くと思うが、ボクはバカだから解決しようとする。

その末に出てきた思いが「漫然とアルバムと向かうべきではない」「ということはシングルを作ろう、しかも1枚ではなく何枚か出そう」、これが具体的な「気持ちの落とし所/解決法」だった。

シングルをリリースすると取材を受けたり、メディアへの露出の機会が増える。そうやってこちらから進んで人前に出ていく必要性を感じた。ただ漫然とアルバムに向かうと、せっかくの露出の機会も「2~3年に一度のちょっとしたお祭り的なもの」になってしまう。そしてボク達は時代にも合わない、人目にもつかない、古い人達になっていってしまう。いや、時代に合わなかったり、古い人達というのはそれはもう当然そうで、それでしかないのだが、もっと「そうなって行き方」は自分達で選べるのではないか、と考えた。

ボクはバカだから、そういったことを「まぁ逆らえないよね」と見ていられないのだ。だって指を咥えてボーッとしていたら、その先に待っているのは「結局こうなっちゃったね」なのだ。

メンバーに気持ちを伝えて、アルバム制作とシングル制作を並行してやっていくことになった。曲を作るのはボクなので、自分で自分の首を絞める行為だったが、やると決めたことはやる。

深夜の部屋での作曲は、当たり前だが大変だった。「なにかアイデアないか……なにかないか……」、そのまま夜が明けることも多かった。かなり必死で曲を絞り出した。ボク達にしては珍しく長期的なプランになったので、緊張感をずっとキープさせることもしんどかった。

その心象風景は、アルバムタイトルの「Indian Burn」という言葉に反映させた。

と、まぁこんな感じで、2023年には3枚のシングルをリリースして、いろんな人の力を借りて世の中に多く露出し、そのたびにツアーをした。そして2024年1月、やっとアルバム「Indian Burn」をリリースして、ただいま絶賛ツアー中だ。

そろそろ2022年に立てて苦労しながらも成し遂げたプランの総括をできる時期だ。

総括としては……「やって良かった」ということしかない。「なんじゃそりゃwwwwww」という感じだがwwwwwwwww

目的のほとんどは達成できていない。別にものすごく人目についてアルバムの価値が上がったかというと、全くそんなことはない。いままでボク達を知らなかった人々がボク達に注目してくれたか、そんな感触はない。新しく音源を聴いてくれる人が増えたか、多少はあるだろうがめっちゃ増えたわけでもない。

じゃあなぜ「やって良かった」か……自分達に課したことをクリアしていき、バンド内が充実感で満たされて、バンドとしてとても良い状態にあることが主たる理由だ。もう自分で話をしててもトホホなのだがwwwwww まぁしかしボクなんかその程度のもんだwww めちゃめちゃ考えているようで、案外チョロいのだwwwww 上に列記したネガティブな問題や思考も、いまとなっては懐かしいもんで、結構がんばって思い出しながら書いた。「どうだったっけなぁ…….確かあれで悩んだはず」という感じだwwwwww

大本題である「アルバムの価値に対する認識」は、大きくは変わっていない。もう価値を取り戻すことはないとも思うし、しかし演る側にとっては依然有効な形態ではある。そこの溝を埋められるのかどうかは、刻々と変わっていく状況の中で、やりつつ考えていくしかない。

むしろアルバムツアー中の今……どちらかというと後者の感覚の方が強いのだがwwww どうしようwwwwwww

とにかくいま Ken Yokoyama は新曲達を引き連れたツアーをしながら、「やれてる感」を得て、充実の中にあるwwwwwwww

自分をバカにしながら書いたが、また時期が来たら上記したような思考のサイクルに陥ることは想像に難くない。それは本当だ。

なので今のボク達は次なる一手、二手くらいを考えてある。楽しみにしていて欲しい。

最後に本音中の本音なのだが、指をくわえてボーッとしてて「結局こうなっちゃったね」となるのは、Ken Yokoyama に関しては、ボクは絶対にイヤだ。

運命をコントロールできるわけないが、少なくとも自分の進もうとしている道だけは「なんとかしてやる」という気概を失いたくない。

それすら失ったら、それはもう辞め時だ。

 

 

「Hi-Standard と NOFX」

ご存知のこととは思うが、NOFX の最後のジャパンツアーに Hi-Standard で参加する。あんなに先の出来事だと思ってたことが、もう数日後に迫ってきた。

「あんなに先の出来事」と書いたが、ボクは NOFX が解散することをだいぶ前に知っていた。2022年の夏の終わり頃には知っていた。

「NOFX 解散」の報は、当然だが秘密裏に聞いた。ショックだった。本当のことだとは思いたくなかった。NOFX の Fat Mike にメールで確認したら「本当だ」と言う。

ボクは必死で止めた。Mike に嫌われてもいい、そういう覚悟で立ち入ったことまで言った。こんなにバンドの解散を止めるのは HEY-SMITH の時以来だ。何日もかけて、何度も何度も Mike とやり取りをした。もしかしたら怒らせるようなことや、言うべきじゃないことも言ったかもしれない。それでも返事が返ってこないと、催促した。しつこく話を聞き出して、しつこく止めた。「世界中に Mike にこんなこと言うヤツ、いるかなぁ?」というくらい止めた。本当に必死だった。でも Mike の中で一旦決めてしまったことを覆すことはできなかった。

最終的にボクは Mike の気持ちを受け入れた。どういう目線だと思われるかもしれないが、受け入れたという感覚が正しい。Mike は「理解してくれてありがとう」と言った。

でも、いまでも解散して欲しくない。なんでこんなに NOFX にこだわるかと言うと、彼らがいなければボクはここに、Hi-Standard はここにいないからだ。特に Mike は Hi-Standard にとって恩人だからだ。

ボク達は Mike に引っ張り上げてもらって、この世の中に飛び出していった。

90年代前半、全世界同時多発的にパンクロックのリバイバルが始まった。リバイバルというのは正しくない……なぜこんなまどろっこしい言い方をするかというと、ボクは「メロディックパンク」やら「メロコア」やら「ポップパンク」という言葉が嫌いだからだ。しかし「パンクロック」というと Sex Pistols や The Clash、The Ramones など「初期パン」と言われる70年代後半のオリジナルパンクのイメージであろう。90年代のパンクロックは、もちろん初期パンを通過しつつも、ハードコアパンク、メタルやポップス、スカやブルースやカントリーやジャズ、あらゆる音楽を呑み込んで、それをそれぞれの「パンクアティチュード」でつつんで、速く攻撃的なサウンドに乗せて鳴らすものだった。初期パンとは完全に異質なものだった。

代表的なバンドを挙げると、Bad Religion、NOFX、Descendents、The Offspring、Rancid、Lagwagon, No Use For A Name……Green Day や Blink182 などもその中に入るだろう。源流は80年代にあるが、ブレイクしてオーバーグラウンドに浮上したのが90年代だったので「90’s パンク」などとも言われる。

このシーンのバンド達は90年代後半にかけて、世界を席巻した。そのシーンを形成する上で重要だったのが「レーベル」の存在。つまり「レコード会社」だ。まだインターネットのない時代、レコード会社の力やカラーはとても重要だった。Bad Religion の Brett が主宰する「Epitaph Records(エピタフ・レコーズ)」はその代表的なレーベルで、The Offspring や Rancid などを世界的なバンドへと押し上げた。

Fat Mike は「Fat Wreck Chords(ファット・レコーズ)」というレーベルを主宰している。90年代中頃には、Fat は Epitaph に次ぐ力を付け始めていた。世界中の「90’s パンクバンド」達が Epitaph や Fat との契約を狙った。ボク達 Hi-Standard も Fat Wreck Chords のバンドが大好きで、大いに憧れ、契約を狙いチャレンジした。しかしそういった大きなレーベルに所属するバンドはほとんどがアメリカのバンド、若干カナダやヨーロッパのバンドがいる程度だった。日本のバンドのチャレンジなど相手にされなくても当たり前なのである。

しかし幸運なことに、知り合いを通じて「Last Of Sunny Day」が Mike の手元に渡ったが「音が悪すぎる」という返事が来た。1st フルアルバムの「Growing Up」の曲作りをほぼ終えていたボク達は、5曲ほどそれ用にデモを録って、あらためて Mike に送った。すると「I Like It!(気に入ったよ!)」という返事が来た。

1995年の5月、NOFX は2度目の来日公演を果たし、Hi-Standard はそのうち2公演でオープニングアクトを務めた。そこで初めて Fat Mike や NOFX のメンバーと顔を合わせ、Mike にライブを観てもらった。Mike はすごく気に入ってくれて「サンフランシスコに来るか?オレがプロデュースするからレコーディングしよう」と言ってくれた。曲作りを終えていたボク達はその年の8月にサンフランシスコに飛んで、Mike プロデュースのもとで「Growing Up」をレコーディングした。

このアルバムは日本では Toy’s Factory、それ以外のテリトリーでは Fat Wreck Chords が販売/流通した。Mike が「このバンドは上り調子だからツアーに連れてってもらえ」と紹介してくれて、1996年に No Use For A Name と真冬のアメリカ/カナダを6週間ツアーした。97年や98年には NOFX にアメリカツアーやヨーロッパツアーに連れてってもらった。NOFX は大きなバンドなので、会場も桁外れにデカかった。ボク達はまるで夢の中を泳ぐかのように、世界中を旅した。普通に生活していたら会うことはなかったはずの人達の前で、毎晩プレイした。

こんな映画みたいな話が、日本の一バンドに過ぎないボク達の身に起きたのだ。

Mike は自分でバンドでプレイしながら Fat Wreck Chords を運営した。そしてボク達にも「自分達でやれよ」と言った。実践している Mike から出た言葉に、返す言葉はなかった。真に受けたボク達は1999年に Pizza Of Death Records を立ち上げ、「Making The Road」を制作、リリースした。周りには心配もされたが……なんとか成し遂げた。この当時に日本でこうして世界と連動していることを形にして提示できたケースは、自分達以外見当たらない。

もちろんボク達は努力した。良い曲を作り、良いアルバムを作り、良い演奏をしようと努めた。ユニークな存在であり続けようと努めた。しかし自分達の力や発想だけではどうにもならないことは多々ある。Mike がボク達を引っ張り上げてくれなければ、NOFX がいなければ、いまボクはここでこうしていないのだ。

一生返しきれない恩義を感じている。

まぁそんな大きな恩義など返せるわけない。

その代わりに、ボクはそこから何を学んだかというと、「誰にでも引っ張り上げてくれる存在は必要だ」ということ。それを Pizza Of Death のバンドや社員達、自分より経験が少なく助けが必要な人達に対して実践するようになった。

話は逸れたが、ボク達 Hi-Standard にとって、そしてボク個人的にも Fat Mike が、NOFX がどれだけ大きな存在かご理解いただけたと思う。

NOFX 解散の話は、もちろんナンちゃんともツネちゃんとも、リアルタイムで共有した。Mike とのメールの会話をスクショで撮って、二人に見せて流れを把握してもらった。もちろんボクと同じようにショックを受けていた。3人でビデオ電話を繋いでは「マジかよ……」「あーあ……」となった。

実は Mike は、解散を決めた頃には、2年ほどかけて全世界でラストツアーをすると計画していた。それが Mike のケジメの付け方なのだろうか……そして日程は先になるけど日本にも行くというので、ボクは「その場に Hi-Standard は必ずいるよ」と伝えた。Mike はすごく喜んでくれた。

なので NOFX の最後の来日は、いつになるかわからない、おそらく2024年になるだろう、その時ボク達はどんなに忙しくても、何があっても Hi-Standard で出ようと3人で決めた。「万難を排す」と決めたのだ。

その Mike との一連の会話の流れで、Mike から「新曲があるけど聴くか?なんなら Hi-Standard で演りたいか?」と、2曲送られてきた。「演るなら1曲だけだ」と言われ、ボクが選んだのは「I’m A Rat」だった。

これを練習してレコーディングにこぎ着けるために、2022年の秋頃からボク達3人はまたスタジオに集まるようになり、12月にレコーディングをした。ボク達は曲の仕上がりにすごく満足した。NOFX は解散してしまうが、Mike が曲をプレゼントしてくれた喜び、それをレコーディングできた喜びは何物にも変え難かった。

レコーディングした時は「ってことは……次の Hi-Standard のライブは NOFX の来日になるのか?」という感じだった。NOFX の来日を待つには、少し長すぎる。ボク達は、せっかく新曲を録ったのだから、どこか披露できる場所はないかと考え始めた。吐き出す場所が欲しかった。そんな時にタイミング良く SATANIC CARNIVAL 2023 から出演オファーがあった。ボク達は「I’m A Rat を披露するだけのためでも意味がある」と感じ、参加の返事をした。

他にもタイミング良く頂いた話がいくつかあり、実現可能かどうかはわからないが、どれも魅力的な話だったので、ボク達はいくつかのプロジェクトを進行させることになった。

年が明けて2月、ツネが亡くなった。

……生前のツネちゃんと必ず演ろうと決めたライブは、SATANIC CARNIVAL 2023と NOFX の最後の来日ということになる。他のライブの話は、ツネちゃんの逝去を受けて消滅していき、まだ残っているプロジェクトもあるが、一旦様子見という感じだ。

ツネちゃんを失ったが、ボクとナンちゃんは、友達の力を借りて SATANIC CARNIVAL 2023 に出演した。ここで「ツネちゃんと演ると決めていたのは、これだけだった」というニュアンスの発言をしたかと思うが、NOFX の最後の来日……それを公の場で言えるわけがない。

やっと来日の話が具体化してきたのは、2023年の秋から初冬だったと記憶している。

ボクとナンちゃんは NOFX の最後の日本ツアーに出たい。その場にいるだけじゃ意味がない。なにがなんでも出たい。いや、出なければならない。誰に迷惑をかけようが、誰が望んでいなかろうが、出なければならない。そう、出なければならないのだ。これはボク達二人の使命だ。

それに先立って昨年の夏、今後の Hi-Standard の活動も見据え、ボク達はドラマーオーディションを実施した。しかしすでにナンちゃんが SNS で公表した通り、新しいドラマーは決定しなかった。非常に多くの応募をいただき、ボクも参加して実際にスタジオで音を合わせたドラマーは数人いたが、残念ながら決まらなかった。

音を合わせたドラマーはみんな素晴らしかった。それぞれにぞれぞれの良さがあった。しかしなにが原因で決まらなかったのかは、実は上手く説明ができない。ボクもナンちゃんも、結局ツネちゃんの影を追っていたのか……「ツネちゃんと同じドラムを叩く人はいないんだよ」「ツネちゃんは二人いないんだよ」、そういったことはもちろん頭では理解していたし、二人で会話にもしていた。しかし決まらなかった。それだけツネちゃんの存在は独特で、大きかったということなのだろう。

NOFX とのツアーは、SATANIC CARNIVAL 2023 でも助けてくれた The BONEZ の ZAX が叩いてくれることになった。The BONEZ は足掛け9ヶ月に亘る47都道府県ツアーを終えたばかり、しかも4月にはそのツアーのファイナルに位置付けされた幕張メッセでの単独公演も控えている。そんな忙しい最中ではあるが、役目を快諾してくれた。

Hi-Standard の今後のことは現状わからない。ツアーを終えてあらためて感じることを、ナンちゃんと二人で話し合うことになっている。

実をいうと、ボクはオーディションで新しいドラムが決まらなかったことがかなりショックだった。いまでもショックだ。簡単に行くとは思ってはいなかったが……自分の心境を表す言葉として正しいかどうかわからないが、見えていなかった落とし穴に落ちた気分だ。繰り返すが、音を合わせたドラマーはみんな素晴らしかった。だからドラマーがどうとかいう問題ではないのだろう。いまだに落ちた穴から這い上がって出る方法を見つけられずにいる。

「オーディション一回上手くいかなかったくらいでそうなるの?」、それはごもっとも。ボク自身もそう思う。しかしここで書くべきではないこともある。なんでもかんでも公に知られせれば良いというものではない。だったら最初から書くなよとも思うが、一回のオーディションの失敗が未だにボクに暗い影を落としていることの説明はつかない。ボクの個人的な心境は、今後の Hi-Standard のイメージが、このオーディションの過程に潜んでいた落とし穴のお陰で、全く湧かない。それくらいの落とし穴だったと思う。

まぁ……時間が解決してくれることなのかもしれないが。

ツネちゃんが亡くなった直後のナンちゃんとの会話を思い出す。

前回のコラムで書いたことだが、ツネちゃんの葬儀中にボクとナンちゃんは喫煙所で Hi-Standard の今後について話した。その時にナンちゃんは少し具体的なアイデアをボクに話した。ボクはすぐにはそのアイデアに食いつけなかった。まだそういった気分ではなかったのかもしれない。いま考えると、もしかしたらボクはその会話を終わらせようとしたのだろうか……ナンちゃんに「どうなろうと、ボロボロになっていく姿をみんなに見てもらえばいいんじゃないかな」と言った。

本当にその通りになってきたかもしれない。

本当に Hi-Standard はボロボロになってきたかもしれない。

ネガティブなことを発したくてそう言っているわけではない。

前にも宣言した通り、絶対に Hi-Standard は畳まない。

NOFX とのツアーは、ZAX の男気を借りてステージに立つ。

ステージでは目一杯楽しんでギターを弾く。

しかしまぁ……「いま考えてみりゃ Hi-Standard は NOFX と一緒に散ったんだなぁ」となることも悪くない、くらいの余裕を持って挑んだ方が、ボクにとっては良いのかもしれない。

2024.03.06

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