フリーライター石井恵梨子の
酒と泪と育児とロック
Vol.7
8月の終わり、東北へ行ってきました。
昨年はAIR JAMで訪れた宮城県。今年行ったのは、宮古、大船渡、石巻という被災地ド真ん中。みんなもよく知る「東北ライブハウス大作戦」で生まれた、真新しい3軒のハコを回ってきたのです。
震災後、行きたい、けど行けない、だって育児中だし仕事もあるし……という感じで先送りにしてきた旅。ようやく動けたのは二年半も経った後。「今さら?」と鼻白む人も多いでしょうが、別にそれでも構わない。「行った人はすぐ行った、だからエライ。行かない奴はヘタレだからずっと行かないままですね」で分断してしまわないためにも、ここに報告したいと思います。
その前に少しの回想を。
私が3・11の揺れを体験したのは、第二子の妊娠10ヶ月、腹がパンパンの臨月で、産婦人科の先生と「もうすぐ出てきますね」なんて話しながら検診を受けている最中でした。あの瞬間どこで何をしていたか、皆さん今も鮮明に覚えているだろうけど、「パンツ履いてねぇ!」という焦りは相当なもんでしたよ。揺れが収まった段階では、地震のとき下半身裸で股開いてたなんてネタになるな、というくらいの気分もありました。
東京だとそこまで現実感がなかったんですね。津波でどれだけの命が奪われたかも、福島第一原発で何が起きたのかも知らないまま。夜が明けるたび、少しずつ明確になっていく事実に目の前がどんどん暗くなっていく。放射能という言葉が日常に突然現れるようになって、本当に泣けてきました。この国どうなんの? てか、腹の赤ちゃん、もう出てきちゃうんですけど!
で、本当に出て来ちゃう。いよいよ陣痛。入院して傷みに七転八倒しながら、それでもテレビからは暗いニュースが流れ続けます。いわく、「トレンチ」と呼ばれるトンネルに高い放射線濃度の水が溜まっており、これが数日内に溢れ出す可能性が高い……。今では海水汚染も日常に組み込まれてしまったけれど、当時はもう、なんか傷みと怒りの判別もつかないまま大声で泣き叫んでましたね。「クソッタレがぁぁぁ!」。
天災か国か東電か、あるいは諸々の問題を呑気に放置していた我々か。誰に対する怒りなのかわからなかった当時の感覚は、いま、社会に対してもっと自覚的にならなきゃいけないという責任感に変わりました。そして、産道を通る時に聞いた母の第一声が「クソッタレがぁ」だったボウズは、なんか知らないけどTOSHI-LOWくんによく似た2歳児になりました。目つき悪いし、耳が立ってるし、やたら筋肉質で、すでに肩が逆三角形。……なに、この顔つき。困りつつもやっぱり可愛いのが我が子であり、彼を育て、隣でどんどん「お姉ちゃん」になっていく娘を見ているだけで、幸せな二年半が経過していたのでした。
ようやく訪れたのは、気仙沼、そして陸前高田を経た大船渡。地名は震災でよく聞いていたし、有名な漁港としても知っていたつもり。でも、やっぱ行かなきゃわかんないですね。
リアス式海岸の三陸海岸は、太平洋側の人間がイメージする、いわゆるビーチとしての「海」とはまったく別物。平地はほとんどなく、急斜面の山の合間に突然の湾が出没します。うまく言えないけれど、初めて訪れた私には、ここが海なのか山なのかわからなくて混乱する瞬間が多かった。波に攫われた人と生き残った人の違いは「わかりやすく海に近づいた」「さっさと高台に登った」ではないのでしょう。ヤバいと思って走った、その数分の違いだけで、あっという間に「高台」と「湾」に分かれてしまう。そんな土地なのです。
そうして、陸前高田には無数の「家の跡」だけが残っていて、やたらと元気な雑草だけが生い茂っていた。ガレキもある程度は処理されて、パッと見は何もない草原ですよ。でも、そこに住んでいた人たちの「家の跡」だけが見える。家庭があり、団欒があり、しょうもない喧嘩やくだらない笑いがあったはず。それがすべて消えたという現実に対して、こちらはまったく為す術がない。それは二年半が過ぎた今でも同じです。
ただ、二年半の間に生まれたものもある。その時カーステから流れていたのはブラフマンの『超克』でした。15年以上音楽ライターをやっていて、親しいバンドの作品は誰より深く、誰よりも理解しているようなフリをしてましたけど、本気でびっくりしましたね。こんなにも一音一音が、一語一句が、肉体に突き刺さってくる経験は初めてだと。
〈曇天の天見上げ/胸底に涙置いて/屈辱を励ましと/さあ一歩進め〉と歌われる「初期衝動」。これはまさにこの場所の話だと理解できたし、〈誰かの台詞/またも逃げ口上〉というのは、なんやかんやと言い訳しながら都内でへらへら生きていた自分に直接刺さってくる。音楽が、耳や脳で理解するというより、体に直接突き刺さる。ここまで肉体的な経験は初めてでした。彼らがすぐに被災地支援に動いたのは周知の事実だけれど、あの時この場にいたからこの音楽になったという結果は、現場を見なければ理解できない。もしあなたがブラフマンのファンであれば、被災地で『超克』を聴く、それだけのためでも行く価値がありますよと力説しておきたいです。
翌日は宮古へ。ちょうどカウンターアクション宮古が一周年を迎える時期で、スラング、雷矢、柳屋睦一座、ハット・トリッカーズ、オイ・スカル・メイツらが出演するイベントの日でした。もはや説明不要ですけども、いわゆるパンク界でもほんまもんの不良ばっかですよ。爽やかなメロコアと比べれば絶望的なガラの悪さ。ド不良しかいないリハーサルの光景を見ながら、小学校の頃ライブハウスの近くを通ったウチのオカンが「あれ見ちゃダメですよ!」と力説していたのを思い出したほどです。
でもね、集まってくるお客さん、みんな楽しそうなんですよ。地元である雷矢・ヤスオさんの同級生とおぼしき40代のおっさんが、子供を肩車してワッショイしてる。その隣では肌がツルツルの少年が目をキラキラさせている(強引に話を聞いたら、バンド始めたばっかりの16歳だった!)。そのまた隣では20代の女の子が雷矢Tシャツでめかしこみ、みんな全力で踊っている。スタッフももちろん笑顔。そして、ここにいる「みんな」は、「あの津波」を直に体験しているんだなと思った瞬間、なんだか泣けてきました。強いな。最高だな。パンクロックにできること、まだまだあるじゃないかって。
翌日は石巻、ブルー・レジスタンスへ。町はそれなり復興しているように見える、だけど全然元通りじゃないという現実を、じっくり見て、話を聞いてきました。この3軒のライブハウス巡りは、年内、書籍として発表する予定です。
本気で腹を割って現地の人と交流できたとは思いません。単なる観光気分だったのも事実。これを読んで不快に思う人がいるかもしれない。だけど、やっぱり、被災していない平和な人間を代表して、余裕さえあれば被災地には行くべきだと思います。何が起きたのかをこの目で見ないと、何をすべきかがわからない。そしてまた、震災後ガラリとメッセージを変えたミュージシャンの真意も絶対にわからない。多くのバンドマンが意識を変えた理由。それを知るには、まだ二年半、全然遅くはないのだと思います。
そして観光情報としては、三陸の寿司、あと宮古「たらふく」のラーメン、めっちゃ旨かったよ。
2013.09.20